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自我というこの不可思議な存在

更新日:1月6日



 この人生を半世紀ほど生きてきたが、この年齢になって「自分」という存在とは、つくづく不可思議な存在だと感じる事が多くある。


 近年、記憶をクラウド上に保存する事で、自分を保存できるという話題が出ていたりする。確かに自分自身の「一貫性」を保つの記憶であり、その記憶をこの体とは別な媒体に保存して、そこにA.I.技術を組み合わせれば、人は「死」を乗り越えられる可能性が有るのかもしれない。ただここでいう「死を乗り越える」とは、死後も今と同じ「自我」が存在するという話なのだが、果たしてこの「記憶を保存する事」で「自分」という存在を維持出来るという考え方は、正しい認識なのだろうか。

 もしかしたら「私の記憶」を元に動く別のモノが存在するだけという事なら、それは「死を乗り越える」とは言えないだろう。そうなると「自我」とは何か、こういった議論の前にそこへの考察はどうしても必要になってくる。その事について、ここで少し考察を交えてみたい。


 ここで勧める考察には一つ注意事項がある。私は学者でもなく市井に生きる一人の壮年男性なので、これは学術的な論文でもなく、あくまでも個人の思索内容を文書化するのであって、けして学術論文とはならない内容になるが、そこはご容赦頂きたい。これから書く内容で、もし認識に齟齬などあれば、ご指摘頂ければ幸いである。

 あとここでは拙い私が学んできた大乗仏教の観点を盛り込んで話を進めていくが、これは私が仏教徒の端くれとしての自覚に依るものなので、そこもご理解頂きたい。


1.自我という事について

 かの西洋の哲学者、テガルトは自著「方法序説」の中で、自分の周囲にあるすべての事を疑い抜いた先にも、否定できない存在があるとして、そこから「コギト・エルゴズム(我思う、ゆえに我あり)」と結論を出した。この考え方が現在の欧米の「自我」という考え方の基本となっていると言われている。

 欧米では「自我(自己)」とは他者から分離され、完全に独立した意識を持つ存在として認識されており、欧米における「個人主義」の考え方、また人権についてもこの思想を根本に成り立っていると言われている。ではこの自我というのは、どの様なものなのだろうか。

 実は最近の事だが、私自身、一つ感じた事がある。それは先に紹介した2歳のころの自分、また幼稚園から始まり学生時代に様々な経験をしてきた自分と、いま壮年世代になった自分。この3つの時間にそれぞれ喜怒哀楽・四苦八苦を感じている自分があり、また周囲の友人や知人、また家族がどの様に関係してきたのか、また天気や町並み等の環境について、今でもしっかりと思い出す事ができる。しかし果たして全ての私が一貫して同じ自分であったのか、そこに少し疑問というか違和感を感じると事があった。

 確かに思い返せば2歳児のころ、物干し台を必死に支え苦しむ自分に笑顔でカメラを向けて写真に収めようとしている母親に対して「そんな事しないで、早く助けてくれ!」と切実に考えた事は今でも記憶にはっきりとあるし、小学校から高校に至るまでの間、入学式やら卒業式、また様々な学校行事や私生活で経験した事は、今でも鮮明に思い返す事が出来る。そこから2歳児の自分と、壮年となり50代となった自分で一貫性がある事を感じ、それらは間違いなく今の自分自身と同じだと確信出来る。この事を「自我の一貫性」と仮に呼ぶ事とする。

 しかし一方で、その「自我の一貫性」をあきらかに担保しているのは、私の中にある「記憶」でしかない。例えば肉体は、頭のてっぺんからつま先に至るまで、新陳代謝のために1年半ほど経過すると、物質的にはすべて入れ替わると言われている。詰まるところ「自我の一貫性」とは、この自分の中の記憶を根拠にしか存在しえないという事なのだろう。


 私は二十歳の頃から、人生とその先にある「死」という事を考える中で、創価学会という宗教団体の中で、多少であるが仏教の教えに触れる機会を得た。


 その仏教に於いてこの「自我」をどの様に捉えているのか。そこについて調べてみると、その事について仏教の唯識派が提唱し、天台宗の祖の天台大師智顗、また鎌倉時代の仏教僧の日蓮も語った「九識論」によりその姿が示されている事を知り学んできた。ここで少しその内容について紹介をしていきたい。


2.九識論に見る自我の構造

 九識論では人の五感については五識として述べている。眼識とは視覚であり、鼻識とは嗅覚、耳識は聴覚、舌識は味覚、触識とは肌などの感覚をさす。九識論によれは、人の五感には其々対応する心の働き(識)があり、ひとは外界から受容した事をこれら五識に依って識別して受容するといわれている。感覚器官が受け取った情報をそのまま識別するのではなく、其々の器官にある認識作用によって受容した情報は選別され、そこから自分の置かれている状況を認識し、それによって様々な事を思惟するのが意識(六識)なのである。よく意識があるとか無いとか言うが、人の心の働きとして表面に現れているのが、この六識たる意識なのである。

 一般的にはこの意識こそが自我の働きと思われているが、近年でも話題になっていた「深層心理」と言う話では、人には表面には見えてこない心の働きがあり、この普段、意識すら認識しない意識の奥底に、意識とは異なる心の働きがあると言われている。そして私達に日常意識の様々な行動の中にこの「深層心理」は影響を与えてると言う。この「深層心理」とは九識論でそれを末那識や阿頼耶識と呼んでいる。


 まず末那識だか、これは一言で言えば「自我の本体(エゴ)」と言われており、しかも本人すら日常生活では感じ得ない心の働きの事を指している。ここ末那識のレベルで自分は他者とは完全に独立しているという認識も持っていると言われ、「他者から独立した自我」もこの末那識から起きていると言われている。この末那識の動きは日常生活の中で意識(六識)にも影響を与えている。また例えば意識や五識は睡眠や全身麻酔、失神などで働きを止める時もあるが、末那識はこの意識を無くした状況であっても常に心の奥底では働いていると言われている。入眠などで夢などを見るのもこの末那識の働きの一分と言ってもよいだろう。


 この末那識について、九識論では以下の様に述べている。


「末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。」

 ここで「阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける」とあるが、これはまさに私が感じた事と同じ事を述べている。ここで云う「阿頼耶識」とは蔵識とも言われ、自我が時々で感じて考えた事や外界から受けた事を全て記憶する識と言われている。これはまさに記憶の別名というものである。つまり九識論から見ると自我とは、阿頼耶識(記憶)を対境として末那識が執着をおこして感じている事だと言うのである。


 次に阿頼耶識とは何か。阿頼耶には住居・場所の意味があり、その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵していることから阿頼耶識とは「蔵識」とも訳され、没する事の無い識である事から「無没識(むもつしき)」と訳される場合もある。仏法では因果の理法を説くが、阿頼耶識ではその因を内蔵すると言うのである。ここまで「記憶」という言葉で述べてきたが、人が身口意(行い、言動、意識)の行いについて後の出来事の因となるものは、全てこの阿頼耶識に蓄積されるというのである。また阿頼耶識は「三種の境」を所縁として働くと言われているが、それは以下の三種の事を指している。


・種子:一切有漏無漏の現行法を生じる種子を指すが、これを端的に言えば私達が日常的に取る行動の中で自分の中に生起する記憶の事。

・六根:眼耳鼻舌身意の六根に生起する記憶の事。

・器界:山川草木飲食器具などの一切衆生の依報を指すが、私たちの生活全般で周囲の環境で起きた事の記憶。


 この三種の境を見てみると、阿頼耶識が蓄える因(記憶)とは、単に自分自身の中に惹起している感情等の記憶だけではなく、周囲の環境で起きた出来事をも蓄える働きがあると言うのである。記憶について改めて考えてみると、様々なレベルがありけして一次元的な単純なものだけではない。そこには個人的な記憶、これは生まれてから今に至るまでの記憶だが、それ以外にも生物的に遺伝子レベルにある記憶もある。具体的に言えば、蛇を嫌う感情は人類の種族としての記憶であり遺伝子レベルの記憶であると言える。それ例外にも民族的な記憶もあれば、そもそも人類の種としての記憶もある。こういった事を阿頼耶識の「三種の境」として述べているのかもしれない。


 仏教の唯識派の内、法相宗ではこの阿頼耶識(八識)を根源の心とするが、果たして記憶のみで自我が形成されるものなのであろうか。確かに自我の一貫性を得るのは記憶であるという事を先に述べたが、記憶の更に深い部分にそもそも自我を生起させる識があるのではないか、それについて天台大師智顗は阿摩羅識(九識)と言うのを立て、日蓮もその論を用いている。


 この阿摩羅識とは如何なる識なのかという事になるが、日蓮の御書の中に「御講聞書」というのがあり、そには以下の記述がある。少し長いが以下に紹介する。


「蓮華とは本因本果なり、此の本因本果と云うは一念三千なり、本有の因本有の果なり、今始めたる因果に非ざるなり、五百塵点の法門とは此の事を説かれたり、本因の因というは下種の題目なり、本果の果とは成仏なり、因と云うは信心領納の事なり、此の経を持ち奉る時を本因とす其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり、日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず、仍て本因とは慧の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」


 ここで日蓮は一念三千の事を指し示し、それは五百塵点の法門の事だと言う。五百塵点の法門とは久遠実成を解き明かした法門の事で、釈迦は久遠の昔(計り知れない程の大昔)に既に悟りを得ており、この娑婆世界の一切衆生も諸々の仏菩薩も、この久遠実成の釈尊の姿であるというのが五百塵点の法門の事であるという事を述べていて、この久遠実成の釈尊の位を究竟即とも呼んでいるのである。


 ここで言う究竟即を「九識本覚の異名」とも言っているが、阿頼耶識の更に奥深く、私たちが日常では観知しえない心の奥底に、この心(識)を生起させる根本識があり、それこそが私達の根源(究竟即)で、それが阿頼耶識を通して「自我」と認識している末那識を作り出してといるのではないだろうか。

 ただこの末那識にしても私達の日常生活の中では容易に認識する事が出来ずにいるが、私たちはその末那識から常に影響を受けつつ、日常生活の中で「自我」として働きを出している。だから「本果(私達の起こす行動など)は果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」という事なのだろう。


3.自我の独立性について

 さて、「自我」という事について少しややこしい話をコネくり回してしまったが、私も含め、これを読む人達の多くは「自我」とは他者から独立した存在であり、輪廻転生論を信じる人達にとっては、この「自我」は遠い過去から未来永劫まで永遠に続いていくと信じている事だろう。  またこの個人の持つ記憶というのは、常に他者から独立したものであり、例えば私の記憶というのは、例えば私の子ども達や嫁には知られる事もないし、また私自身も嫁や子ども達の記憶を得ることは出来ない。つまり記憶が完全にスタンドアロンであり、他と独立していれば、当然、それにより惹起している「自我」も独立して然るべきと考えるのは当たり前の事だと思う。

 しかしこの世界には不可思議な事というのは存在していて、例えばよく霊能者と言われる人達や、一部の能力者の中には、相対した人の考えている事や住んでいる場所の状態、また家族や先祖の事をビタリと言い当てたりする人がいる。霊能者には「守護霊から聞いた」という人も居るが、理由はともあれそういう人はこの世界には存在するのも事実である。人はこう言ったオカルト的な事になると、とにかく直ぐに否定をする姿勢を取るが、こういったオカルト的な話の中にも、特筆すべき出来事というのは存在するのである。


 私の知人の父親(既に故人)もそういう能力を持ち合わせて居た事を以前に知人から聞いた事がある。その知人が友人を連れて父親に合わせると、知人の家の玄関入ってからの状況や、本人や家族が置かれている状態、また本人が抱える問題を父親はピタリと言い当てたりしていたというのである。

 その父親が言うには「多く人の悩みに寄り添う中で、こういった能力は身に着くものだ」という事らしい。確かにそれはあるかもしれない。私が過去に創価学会の中で役職を持ち、多くの人と日常的に会う様にしていた時「個人指導」という事で私の家に会員が連れて来られたり、またその会員の家庭を訪問したりしていた事がある。当時の私は会った時の相手を見るだけで、その本人が抱えている問題の大枠を言い当てる事が出来たりした。これは今から考えてみると不思議な経験である。では今の私はどうかと言えば、その当時ほど多くの人と頻繁に会う事は無いので、そういった「勘」は鈍ってしまっているので、当時ほど鋭敏に感じる事は無くなってしまった。


 また「過去の記憶を持つ人」という話も良くネットなどでも取り上げられている。いわゆる「前世記憶を持つ人」の事だが、この記憶を持つ人は果たして「生まれ変わり」と呼んで良い事なのだろうか。生まれ変わりとは自我が時間軸の上で過去から未来まで一貫して継続する事を大前提として言われている事だ。しかし先に説明してきた様に自我とは「それ(過去の記憶)を自分であると考えて執着し続ける」というものであれば、そこに一貫して継続しているのは記憶であり、けして世間で言われている様な完全に独立した人格が「前世記憶を持つ人」という事で生まれて来たという話とは少し異なる様に思う。


 例えばネットの動画配信サイトでは、前世記憶を持つ人を取り上げたものがある。これはAmazon Primeで配信されている「死者の記憶を持つ子供たち」というドキュメンタリー番組だが、ここでは前世の記憶を持って生まれた5つの例が取り上げられていた。このドキュメンタリー番組で紹介されている子供たちは、その過去世の人格(自我)が死に際して経験した事を克明に記憶しており、その瞬間の苦しみや恐怖を如実に語っている。それを見るとまさに「死者の記憶を持つ子供」と言っても良いだろう。しかしこの死者の記憶を持つ子供の人格というのは、果たしてその前世記憶を持っていた人格と一貫して同じであると言って良いのだろうか。

 この番組で紹介される事例は、ひとつひとつが興味深い話だが、こういった死者の記憶を持つ子供たちの多くが、年齢が上がるにつれ前世記憶を忘れ去ってしまうらしい。正確には忘れ去るという事ではなく、人格の心の奥深くへと仕舞われてしまい、日常生活ではその記憶を取り出す事が出来なくなるという事なのかもしれない。しかしその前世記憶はその子供たちの成長に伴う人格形成には、大きく影響を与えているのである。


 この「過去世の記憶を持つ人」の事例により、独立した人格がまるで霊魂の様に、遥か昔の過去から現在に、そして未来永永遠に続くという考え方を肯定したりしているが、果たして本当にそういったものは存在するのだろうか。個人の記憶が完全に独立したものであり、それは他には漏れ出ないという事であれば、そこに個々に独立した人格が存在し続け、良く言われている「三世永遠の生命」という様な話になるのかもしれない。しかしもしこの記憶が実はオープンなものであり、容易では無いにせよ他者に漏れ出る事があるとした場合、そこから独立した人格が存在するという事とは少し異なる話になるのではないだろうか。もしかしたら、原因などメカニズムは判らないが、生まれ出る際に過去に存在していた人の記憶が、生まれ出る子供の記憶に混入してしまった結果、「死者の記憶を持つ子供」というのが出て来てしまったと言う事ではないのだろうか。また先に紹介した私の知人の父親の様に、いわゆる他者の状況を的確に言い当てる事の出来る人というのは、この他者の記憶にアクセスできる特殊な能力を持った人であるのかもしれない。


 もしそうであった場合、自我の独立性という事についても、実は欧米の考えている様な「完全に他者から独立した個人」という事も実は存在しない事になってしまうし、自我の独立性という事についても、少し改める必要があるのかもしれない。ちなみに近年言われている「アカシック・レコード」という事も、こういった事に関連すると思われるが、それは別項として触れてみたいと考えている。


3.法華経に説かれている自我の姿

 ここまで自我という事、そして自我の独立性についての私の考えをつらつら書いてきたが、この私の考え方に大きな影響を与えたのは、法華経(妙法蓮華経)如来寿量品に説かれていた久遠実成という教理である。先の文でも少し紹介してはいるが、ここでもう少しこの久遠実成について具体的な内容を書いてみたい。

 法華経(妙法蓮華経)は大乗仏教の最高経典と言われているが、何故、最高経典と呼ばれているかと言えば、この久遠実成が説かれているからと言われている。法華経は釈迦が晩年の八年間にインドの霊鷲山で説いたと言われているが、近年の研究に拠れば大乗仏教成立と同時期に成立した経典とも言われていて、釈迦滅後、五百年頃に成立したものと言われている。

 この法華経は二十八品(章)で出来ているが、その中の如来寿量品第十六で久遠実成は説かれている。釈迦は十九歳で出家して、三十歳で成道(悟りを開く事)したと一般的な仏教で言われているが、この如来寿量品では五百塵点劫という遥かな過去に既に釈迦は成道していた事を明かしている。

 ここで言う五百塵点劫とは、この宇宙(三千大千世界)を全てすりつぶして細かな塵にして、東に向かい無量の国(五百千万億那由他阿僧祇)の国を過ぎで一粒ずつ落とし、塵を全て落とし終えたら、通り過ぎてきた塵を落とした国、落とさなかった国全てを磨り潰して塵にして、その塵の一つを一劫(千六百万年とも言われる時間)として数えた年数よりも百千万億那由他阿僧祇倍のだと言うのである。

 この時間について釈迦は弥勒菩薩に対して理解する事が出来るかと問うが、弥勒菩薩は、菩薩の深淵な智慧や、縁覚と言われる学者の智慧でもこの久遠の時間とは理解する事が出来ないと答えた。つまりこの過去の時間とは言っても、久遠の概念は既に人の認識を超えるものであり、既に時間という概念を超えたもを指しているのである。一部の仏教宗派、これは創価学会でもそうだが、日蓮正宗や天台宗恵心流では、この久遠をまるで昨日の様に考え、さらにそれよりも遥か昔という時間軸を考え、久遠元初という言っているが、それは既に的外れな話でしかない。既に法華経の中で弥勒菩薩の回答として「時間軸では計り知れない事」と述べているのだ。  ではこの久遠(五百塵点劫)とは具体的にどの様な事を示そうとしているのかと言えば、それは日本語で言う「元来」という事を指すと考えても良いだろう。つまり久遠実成というのは、釈迦は元来から成道していたのであって、この世界に生まれでて修行の後、悟りを開いたのではないというのである。


 しかしこうなると大乗仏教に於ける仏と衆生(人々)の間には大きな分断を生んでしまう。何故ならそれ迄の仏典では、釈迦は四門出遊で人生の逃れられない苦悩を知り、それを解決するために出家して、長い間の苦行林の修行、また菩提樹の下で座禅を組み、長き瞑想をへて魔を降して成仏したと説いていた。つまり仏とは凡夫が修行の末に得られる境涯でありそこには溢れる智慧や慈悲があり、多くの人生の苦悩の事も解決したものとされていた。しかしもし久遠実成で釈迦が元来から仏であったとなれば、それ(仏の境涯)は衆生が修行して得られる境涯では無いという事になってしまうのである。

 しかしそうなると仏という境涯に対する考え方も変わって来る。それは釈迦が元来から仏という事であれば、釈迦がこの世界に誕生してから出家するまでに感じた人生の苦悩、またジャータカ伝説(本生譚)で語られていた過去世の釈迦の修行の姿も全て「仏となった後の釈迦」が受けた悩みや苦悩となり、それは従来の成の境涯とは相反するものになってしまう。仏になっても人は多くの悩みや苦しみを抱え、常に修行をし続けなくてはならない。


 ただ如来寿量品では、久遠実成を明かした後、その久遠に成仏していた釈迦は常に娑婆世界(この現実世界)で人々に説法教化をして、菩薩の行動を続けていた事を明かしている。つまり仏とは言っても、常にその振舞とは他者へ対する慈悲の行動として現れると言い、その久遠から今に至る中では燃燈仏という仏であった事を明かしている、実はこの部分がとても大事なのである。

 ここでまず燃燈仏とは何かという事だが、これは「瑞応経」という経典に説かれており、釈迦が儒童梵士(菩薩)と呼ばれていた過去世に於いて、燃燈仏は儒童梵士に対して未来世において悟りを開き、釈迦仏となる事を予言した仏なのである。こうなると以下の構図が明きらかになる。

 ・仏:燃燈仏=久遠実成の釈迦がその世界に現れた姿

 ・弟子:儒童梵士=久遠実成を明かした釈迦の前世の姿

 つまり久遠実成の釈迦は法華経の如来寿量品では、釈迦の元来の姿として説かれていたが、その久遠実成の釈迦は、ある時代では燃燈仏と儒童梵士の2つの人格として存在していた事を明かしている。そしてこの霊鷲山で法華経を説いている釈迦も、久遠実成の釈迦の出現した人格の一つだというのである。


 久遠実成の釈迦とは当然悟りを開いた存在であるので、過去には燃燈仏という仏の姿として現れた事にもなる。一方儒童梵士は同じく久遠実成の釈迦が菩薩として現れ、心の奥底では悟りを内在しながら菩薩の姿として行動した。そしてこの法華経を娑婆世界で説いた釈迦は、この現実社会の中では、同じく心の奥底に悟りを内在しながらも、自ら悩み苦悩をしながら苦行林で修行をし、菩提樹の下で瞑想し降魔した姿を人々に示し、救済する存在として出現していたという事になる。

 また「本生譚(ジャータカ伝説)」で語られた多くの釈迦の過去世の逸話である、楽法梵士や薩埵童子も同じく久遠実成の釈迦が、それぞれの人格を持って修行した姿の話となっていくのである。


 この久遠実成をという事、また法華経に説かれている事を敷衍して考えてみると、今の世界に生きている人々とは、心の奥底に悟りを持ち生きているという事にもなる。ここでいう悟りとはこの世界の成り立ちから、自らこの世界に生まれ出た理由や為すべき事を、既に人々は知り尽くしているという事にもなるが、そういう事を持ち合わせながらも、表面的な自我によって様々な喜怒哀楽を人生の中で享受しているという事になるのではないだろうか。


4.まとめ

 ここで一旦、「自我というこの不可思議な存在」という事について、まとめを書かせて頂きたい。ここでは主に九識論や法華経の観点を持って自我について考えてみた。そこで見える自我の姿というのは、けして個々に完全に独立したスタンドアロンとしての存在では無いし、その自我を造り出すところには共通の心の基盤が存在する事を指し示している。つまり自分と他者とは完全に独立した存在ではなく、共通の心の基盤が、記憶といういわばフィルタを通して、それを「自我」と執着しているだけであるというのである。現代の文明は主に十八世紀以降に西欧で起きた思想、またその奥にはキリスト教的な哲学を基本として成り立っている。しかしその文明が今世紀に入ってきて、様々な処で綻びを見せてき始め、今の世界は当に「終末期」に来ていると言われても居る。確かに人類の文明とは、このままではせいぜい百年は存続しえない状況にも見えたりする。

 こういう時代だからこそ、人々は一番身近なこの「不可思議な存在」に対して真摯に向き合い、それを理解しなければならないのではないだろうか。私はその様に考えているのである。


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