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法華経の世界観➂


4-3.如来秘密神通の力の明かす事

 さて、前の記事では法華経如来寿量品で説かれた「久遠実成」について書きましたが、そこでは五百塵点劫という遠い過去に於いて既に釈尊は開悟していた事を明かしました。そしてその久遠の昔から今に至るまで無量無辺の衆生を教化してきた事を明かし、その中には燃燈仏として法を説いて来た事を明かしたのです。


 ここまで来た時に考えなければならない事があります。

 釈尊とは王子として生まれ、この世界にある苦しみを解決したいと29歳で出家し、35歳で菩提樹の下で悟りを得たと言われています。そしてジャータカ伝説(本生譚)では、この今世に於ける悟りとは、過去世からの長い長い修行の結果として得られた事だと述べていました。この事は法華経の方便品第二に於いても仏の智慧を讃嘆する以下の言葉で言われていました。


「仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。」


 しかし如来寿量品では久遠の過去に既に成仏していたと言うのであれば、この過去に「諸仏の無量の道法を行じ」というのは、実は既に悟りを得ていたにも関わらず、仏の元で様々な修行に励んでいたと言う事になってしまいます。またそればかりではありません。ここで「燃燈仏」という姿を現して過去に法を説いていた事もあると述べています。さて、これは何を指し示しているのでしょうか。


◆悟りについて

 仏教では悟りとは全ての苦悩を克服した先の境涯だと説いています。しかし久遠実成で釈尊が元来から悟りを開いた仏であったとした場合、人生に降りかかる様々な苦しみとは、釈尊が悟りを開き成仏したにも関わらず受けたことになります。ジャータカ伝説で説かれていた過去世の釈尊の悩みや苦しみは、既に成仏してからの物語という事になるからです。また釈尊がこの世界に生まれ出てからも、多くの苦しみを得て悩み、六師外道の師匠の元で学んだことも、苦行林で死ぬ直前まで激しい修行に励んだことも、すべてが成仏してからの事となるのです。


 つまり仏教では「彼岸」とも「涅槃」とも呼んでいた境地とは、悟りを開く事に至る境地であり、仏教を信じる人達はその境地を求めていましたが、これではけして悟りを得て仏になろうとも、この娑婆世界で受ける苦悩は受ける事には変わりが無い事になるのです。


◆師弟について

 また釈尊が久遠実成したのち、この娑婆世界で常に法を説き、そこでは様々な仏として姿を現し、多くの人々を救済してきたと明かしますが、その中には燃燈仏もあったと説いています。燃燈仏とは、釈尊の前世の儒童梵士であった時の師匠であり、この師匠に付き従い修行をした事で今世において釈迦は悟りを開き仏になったと言うのです。つまり燃燈仏も久遠実成の釈尊の姿であれば、そこで修業した儒童梵士も同じく久遠実成の釈尊だという事になり、師弟共に久遠実成の釈尊がこの世界には異なった姿として現れたという事なるのです。


◆仏界と仏について

 つまりこの久遠実成が明かされた事で、それまで仏教で説かれていた成仏観や、仏と衆生の関係性が大きく変化してしまう事となります。要は悟りを得た仏であろうと多くの苦しみを感じ、悩みの中で法を常に求めて修行をするという事で、これはこの世界に出世した釈尊の生涯を考えれば解ります。釈尊は娑婆世界に生まれてから直ぐに生母を亡くし、王族として育ちましたがそこで四苦を知り出家をしました。出家に至るまでの苦悩は仏典に書かれている通りですし、ジャータカ伝説(本生譚)により過去世に法を求め続けた姿の釈尊の事を見れば、そこでも悩み苦しみながら法を求めていた事が判ります。

 また仏という境涯は修行の先に得られる境涯ではないという事になります。何故なら釈尊自身が既に五百塵点劫という久遠の昔に成仏していたのであり、それは修行の末に得られる境涯というものでは無い事になります。久遠実成により釈尊は元来から仏だったという事が明かされましたが、それは始成正覚という修行の先にある境涯としての仏とは異なりますし、この世界で成仏をしたというのは、方便の姿という事になってしまいました。

 そして燃燈仏も久遠実成が衆生を教化する仏として現れた姿であるという事が明かされましたが、この燃燈仏は久遠実成の釈尊が衆生を導く姿として現れた仏であり、そこで修行をしていた過去世の釈尊(儒童梵士)も久遠実成の釈尊を内に秘めた姿である事が明かされたのですから、師匠と弟子は共に久遠実成の釈尊という事であり、そこでは異なる境涯異なる姿で現れていますが、ともに久遠実成の釈尊の姿という事なのです。


 仏教には「十界論」というのがあります。これは人の心の境涯(感情や心の動き)には十種類あるとして、天台教学の伝統を表した『仏祖統紀』巻50に出できている論です。創価学会もそうですが、主に日蓮系の教学では基礎としてこの十界論を学んでいます。この十界論では下は地獄界から上は仏界まで、十の境涯を説明しており、そこでは仏界ばかりは詳細な説明をなされておらず単に「悟りを開いた状態」とのみ述べています。しかし他の九界は例えば苦しみや怒り、諂いや他者への思いやりといった、具体的な心の動きが示されているのに対して、仏界については「仏界ばかりは現じがたし」と具体的な事が示されていません。

 この事から、仏界の時の心の動きについて「負けじ魂の精神だ」「こんくしょう!という思いだ」等という誤解が生じてしまっていると思われます。


 日蓮はこの事について、開目抄で以下の様に述べています。


「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」


 ここでは地獄界から菩薩界までの九界は、無始(本源的な存在)の仏界に具わり、仏界とは無始の九界として現れる。そしてそれこそが真実の十界互具であり一念三千の姿だと言われています。つまり仏界とその他の九界は、相互に関係するものであり、横並びに論ずるものでは無いと言うのです。ここでは九界の姿は仏界に具わる時々の境涯であり、仏の姿とは九界として現れると言うのです。これは「目指すべき境涯としての仏」ではなく「心の根源としての仏」とも言うべき、仏教の仏という事の大転換であり、それこそが真実の姿という事を表しているのではないでしょうか。



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