top of page

法華経の世界観②

更新日:2023年1月22日


 さて、ここから如来寿量品第十六に沿いながら、そこで説かれている「仏の本質」という事について、少し思索の羽を広げてみたいと思います。


 この「如来寿量品第十六」とは、日蓮正宗では朝晩の勤行で読誦する経典です。創価学会では以前には「長行」という冒頭部分も読誦していましたが、日蓮正宗から離れ、「二十一世紀勤行」とか云う変なフレーズで語られる形式の勤行になってから、この長行部分は読誦する事が無くなりました。だから最近活動を始めたり、入会した会員は「如来寿量品第十六」と言えば「自我偈」しか知らないと思います。


 創価学会では勤行の時に経典を読む事について、会員に以下の様に教えています。


「池田先生の講義から

「正行」と「助行」の関係について、日寛上人は、米やソバを食べる(正行)時に、塩や酢(す)が調味料として使われて味を助ける(助行)ことに譬(たと)えておられる。

「正行」の功徳は広大です。そのうえで、「助行」は「正行」の功力(くりき)を増し、促進(そくしん)する助縁(じょえん)の働きをもっている。

「正行」である唱題を根本として、方便品・寿量品の読誦を「助行」とするのが、私たちの勤行の基本的な在り方なのです。(『法華経 方便品・寿量品講義』上(P.20)より)」


 何を言っているのか、解る様で解らない内容ですね。

 本来、仏像の前で読経するのは、それは仏の説法の場に居合わせるという意義もあって、私達が経典を読誦する事は、それが仏の説法の声(梵音声)にあたる事なのです。

 しかし創価学会では、この経典を読むのは「調味料」と言っています。その解釈は大石寺の賢樹院日寛師の考え方をそのまま踏襲している内容です。でも経文が「調味料」ってどおういう事なのでしょうか。こういった姿勢からも、結果として経典を「呪文の言葉」として認識しても、それを「仏の教え」として認識させない事にもつながってしまったのは、とても残念な事でもあるのです。


 少し前置きは長くなってしまいましたが、読み進めてみたいと思います。


4.如来寿量品について

 法華経の各章(品)には題号が付いていて、そこには説かれている内容の概要について書かれています。ここでは仏の寿命の量について説いているので「寿量」と書かれているのでしょう。


4-1.弥勒菩薩の問い

 この如来寿量品の前、従地涌出品で六万恒河沙という無量の大菩薩達が大地から湧き出した事でその場にいた弥勒菩薩は疑問を持ち、それを釈尊に対して疑問をぶつけました。


「譬えば少壮の人 年始めて二十五なる

 人に百歳の子の 髪白くして面皺めるを示して

 是れ等我が所生なりといい 子も亦是れ父なりと説かん

 父は少くして子は老いたる 世を挙って信ぜざる所ならんが如く

 世尊も亦是の如し 得道より来甚だ近し

 是の諸の菩薩等は 志固くして怯弱なし

 無量劫より来 而も菩薩の道を行ぜり

 難問答に巧みにして 其の心畏るる所なく

 忍辱の心決定し 端正にして威徳あり

 十方の仏の讃めたもう所なり 善能分別し説く

 人衆に在ることを楽わず 常に好んで禅定に在り

 仏道を求むるをもっての故に 下の空中に於て住せり

 我等は仏に従って聞きたてまつれば 此の事に於て疑なし

 願わくは仏未来の為に 演説して開解せしめたまえ」


 これは訓読の内容なので、もう少し平易な言葉で語ると弥勒菩薩の疑問は次の様になります。


「例えば25歳という若者が、百歳で髪が白く皺だらけの人を指さして”これは我が子である”といい、年老いて見える人が若者を指さして”これは私の父である”と言っている様に見えます。釈尊も同様に悟りを得てから数十年程度なのに、(釈尊の弟子である)この諸々の大菩薩達は志も固く惰弱な様にもみえず、無量劫の昔から菩薩道を行じていると言います。巧みに難しい問答を行い、その心には畏れるものはなく、忍辱の心をもって、端正に威厳のある姿をしており、十方の仏も褒め称えているくらいです。善悪を良く弁え、人々の中にある事を願わず、常に心を定めて禅定しており、仏道を求めるが故に、地面の下の空中に居るといいます。この事について答えて頂ければ疑いを持つ事はありません。未来の為に、仏よ、この事を解説して頂けないでしょうか」


 拙い現代語訳になっていまいましたが、ここで弥勒菩薩が釈尊にぶつけて居る疑問とは、地涌の菩薩と釈尊(始成正覚の釈尊)の見た目の姿や、その持ち合わせている雰囲気が圧倒的に異なるという事を言っているのです。ここでは25歳の若者と、100歳の白髪で皺だらけで威厳のある老人として比較していますが、要は釈尊よりも地涌の菩薩の方が、仏らしい立派な相を持っている事を指摘し、四十余年前に悟りを得た釈尊が、これだけの無量の威厳ある大菩薩を「本弟子である」という事に、納得いかないという事を言っているのです。


 これに対する釈尊の回答から、如来寿量品が始まるのです。


4-2.如来秘密神通の力

 ここでは釈尊が「これから私が言う事を、あなた達は信じて理解しなければいけない」という事を三度言い、それを受ける菩薩達も「お願いですから、説いてください。私達は必ず信じて理解致します」という誓いを三回述べる事から始まります。これを「誡信(かいしん)」と言いますが、この慇懃とも言える事からも、これから釈尊が説く事が、とても難儀である事を示すものと言っても良いでしょう。


 そして釈尊は「汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。」と述べてから「久遠(五百塵点劫)の成仏」について語り始めます。


「一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を  去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。

 然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。」


 ここで釈尊は、全ての人々が釈尊が釈氏の宮殿を出てガヤ城を去ってから後、間もなく道場に座禅して阿耨多羅三藐三菩提(正覚)を得たと言っている。しかし私は成仏してからこれまで、無量無辺百千万億那由他劫という時間が過ぎているのである。という事を明かします。


 仏教の中、これは大乗仏教に於いても小乗仏教に於いても、釈迦が悟りを開いたのは紀元前数百年前に、インドのブッダガヤ(現在のネパール)で菩提樹の下で結跏趺坐して瞑想に入り、そこで魔を降して後、悟りを得たという事になっています。しかしこの法華経に於いては、そんな紀元前数百年前に悟りを開いたのではなく、既に釈尊とは悟りを開いた状態でこの世界に誕生したという事になり、過去とは言っても、それはこの娑婆世界に生まれ出たというタイムスケールの話ではなく、無量無辺の遠い過去に於いて悟りを開いた状態で来ていたというのです。


 では具体的にどの程度の過去かと言うと、ここで釈尊は「無量無辺百千万億那由他劫」と述べています。ここでは「劫」という時間単位が、無量✕無辺✕百✕千✕万✕億✕那由他という膨大な数を掛け合わせただけの時間だと言うのですが、この「劫」というのは大梵天の一日と言われています。そしてこの大梵天の一日とは、様々な説がありますが、約43億2000万年と言われていますので、ほぼ地球の今の年齢と等価な時間です。それに膨大な数を掛け合わせた分だけの時間というのであれば、既に計算できない程の時間を指しています。

 如来寿量品では、このあと「五百千万億那由他阿僧祇~」と、この長遠の時間を説明していますが、ここで詳細を取り上げても、はそれはあまり意味が無いと思いますので割愛します。ただしこの長遠の時間を「五百塵点劫」とも「久遠」とも呼んでいるのです。そしてそのタイムスケールを聞いていた弥勒菩薩が次の様に語っています。


「世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。

 一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。 

 我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。

 世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。」


 これはつまり、菩薩や二乗(学者等)の智慧をもってしても、既に理解に及ばないと述べていて、久遠という時間は、既にタイムスケール(時間枠)の話を超越したものとなっていると言っても良いでしょう。ではこの「五百塵点劫」「久遠」というのは、何を指し示しているのか。私はこれを「根源・根本・元来」という意義かと思いますし、もっと安易な言葉を言えば「そもそも元から」と言っても良いと思います。


 つまるところ、この久遠実成では釈尊とは元来から仏であって、この娑婆世界で悟りを開いた存在では無いという事になります。確かにそうなれば、地涌の菩薩の教化についても、論理的には納得できる範疇になると思いますが、一方で釈迦は既に仏であったとして、悟りを得るとはどういう事になるのか、私達にとっての成仏とはどうなるのか。という事が当然、話として出てくると思います。釈尊は語り続けます。


「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。

 亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。

 諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、

 又復其れ涅槃に入ると言いき。 

 是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」


 久遠に成仏していた釈尊は、つねに娑婆世界(現実世界)にあって人々に教えを説いてきたといいます。そして今までに教化してきた人数は無量であったと言います。またこの娑婆世界で説法をしてきた中では、自身を燃燈仏として説法を行った事もあったといい、それぞれの仏の時には、涅槃に入る(入滅)と言ってきた事もあったというのです。しかしこれ等も全て人々の機根を見ながら教化する方便として行ってきた事だと言う事を明かしたのです。


 ここまでが「如来秘密神通力」と呼んでいますが、「久遠実成」の内容となります。しかしこの話は少し混乱してしまいがちな内容である事から、少しずつ掻い摘んで説明をしていきます。



閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page