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四教の因果と本門の因果



 以前に私はブログで「幸福が目的ではない」という事を書かせてもらいました。良く人は「幸せになるために生まれてきた」という言葉もありますが、私達は何のためにこの世界に生まれてきたんでしょうね。そんな事をこの年齢になって考える様になりました。

 若いころ、私には様々な夢がありました。その中にはイラストレーターになりたいという夢がありました。もともと人に指図されて仕事をする事が性に合っていないと思いましたし、当時は絵を描く事も好きだったので、イラストレーターとして独立して仕事をしたい。そんな事を夢見た時期もあったのです。


 しかし今ではITエンジニアとして雇用形態は派遣社員で仕事をしています。しかし何故かある程度の裁量を貰って仕事が出来る環境に居ます。20代から30代までの間は知人と会社をやっていたりもしました。また2020年初頭からのコロナパンデミックの影響もあって、それから今に至るまでテレワークの為に自宅に籠って仕事をしていますので、ある意味で若い時に持っていた願いの一部は叶った感じにもなっている。そんな事を感じたりもしています。


 自宅では管理者の眼も届きませんからね。成果物をしっかりと上げていれば、何を言われる事もありません。


 私が創価学会で活動を始めた時、学会の先輩からは「夢を持ってそれを実現するのが(創価学会の)信心なんだ」と教わりました。そして創価学会の指導通りの活動をすること、これを「信力・行力」と呼んでいましたが、それによって「仏力・法力」が湧現し、夢や希望が叶い、成仏という絶対幸福境涯に近づく事が出来るんだという事も教わったのです。


 若い時には無邪気に信じていたこういう事ですが、年齢も五十代後半に入り思う事は、それは「違う」という事です。創価学会の先輩の中でも最近、六十代で鬼籍に入る人が居たり、一緒に一時期活動した仲間の中には四十代で障がい者となってしまい、五十代を前に亡くなった人もいます。かくいう私も一昨年前に大病を患ったり、また最近でも若い時の不摂生の結果なのか、体に不調を抱えていたりします。また真面目に学会活動をしていた人が全て「成仏の直道」を歩んでいる姿を示しているかと言えば、私同様、青年時代に必死に活動していた人達で、すでに創価学会の活動に辟易して組織を離れ、辞めている人も居たりするのです。


 そんな事を見ていると、やはりこの人生は何のために生まれてきたのか。そういう事を考えてしまいますし、そもそも仏教でいう成仏というのは創価学会か教えてきた絶対的幸福境涯を指す事だったのか、そこを改めて考えてしまいます。  こんな事を偶に私を訪ねてくる地元の「大幹部」に質問しても、彼らは明確な答えを持ち合わせておらず、彼らは答える内容は「創価学会に付き従う事の大事さ」とか「池田先生を求める事」。そしてその中で「功徳を受けきる事」の大事さだけ語るのだけです。


 これは今から十数年前から変わらずの事で、彼らに問うても答えは得られません。

 一体、日蓮仏法とは何なのか。私はそんな事を考えはじめてから、日蓮の御書を創価学会の指導に依らず読み、法華経を紐解き、多くの書籍に親しみながら様々な人と対話を重ねてきました。そんな中で「四教の因果」「本門の因果」という事について、日蓮の御書の中に見る時がありました。これはとても大事な示唆を含むものだと思い、それについて私なりに理解をした事を、ここで少し文書化してみたいと思います。前置きが長くなりましたが、少しお付き合いください。


◆四教の因果と本門の因果

 この四教の因果と本門の因果については、日蓮は開目抄で述べています。


「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」


 この開目抄は日蓮正宗や創価学会では「人本尊開顕の書」と呼んでいたりしますが、背景と大意、また与えられたのが四条金吾を筆頭とした門下一同としている事を鑑みると、この開目抄とは日蓮の遺言書ともいえる内容であり、自身の弁明書でもあると思うのです。けして「私は人本尊だ」という様な内容ではありません。ここで日蓮が述べているのは自身で肉薄した法華経観についてであり、それがこの開目抄の主題となっていて、その大事な要旨が本門の因果でもあるのです。


 まずここでいう「四教の因果」とは何かですが、「四教」とは天台大師の言った「五時八教」の中で「華厳・阿含・方等・般若」の四時を指していて、「因果」とはそれらの経典で言われる仏道修行(因)と成仏(果)の事を言います。この四教の時期の経典は、天台大師や日蓮がいうには「権経(仮の教え)」であり、そこでは衆生は長い時間、仏道修行を行う事でようやく成仏できる事を説いています。またここで説かれる仏とは煩悩を断絶し、苦悩を滅し尽くした偉大な存在であると説かれています。


 しかしこの仏の姿というのが、法華経の本門寿量品で示された「久遠実成の釈尊」という姿で打ち破られました。ここでは人智の及ばない遠い昔(久遠)に釈迦は既に成仏しており、ジャータカ伝説(本生潭)で説かれていた雪山童子など、苦悩の中で法を求めて身をささげた過去の釈迦である修行者の姿は全て成仏後の姿になるのです。私達の知っている釈迦とは、王子として古代インドに出世して出家の後、成仏したという事になっていますが、これも実は久遠実成によって成仏後の姿となります。またそれだけではなく、過三世十方の仏も久遠実成の釈尊が現れた姿であり、釈迦の前世の師匠であり、彼に成仏を約束した燃燈仏も同じく久遠実成の釈尊の姿であると言う事になりました。


 日蓮はこれを「本門の因果」と呼んでいます。つまり法華経で説かれた久遠実成ことが本当の意味での仏の姿であり、仏道修行の姿であると言う事により、過去の権経(四教)で説かれた因果とは全く異なっているのです。ここでは成仏していた釈迦が、過去世に於いても苦悩し、ひたすら法を求めて修行に励んでいた。つまり成仏とは「結果」ではなく、行動の源泉である「因行」を起こす本源だと言うのです。そしてそれを日蓮は「始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ」と呼びました。


 つまり仏とは、修行の先に得られる境涯ではなく、私達が生きている姿の本源にある存在となり、修行とはその仏の姿の一分である私達が菩薩行を行じる事を指し、けしてその先に得られる境涯が仏という事では無くなったのです。これは仏教の教義ではとても大きな「パラダイムシフト」なのです。しかし創価学会や日蓮正宗ではこの大きさは認識出来て居ないようです。

 何故なら彼らの教義では、日蓮を「久遠元初自受用報身如来」と呼び、久遠さえも昨日の様に感じる程のさらなる過去に日蓮は成仏し、久遠実成の釈尊でさえも日蓮の仮の姿だと教えています。だから釈迦という仏も「仮の仏」「自分達とは無縁の仏」として、仏教を真摯に学ぶ姿勢を持つ事は出来ません。結果、久遠実成の本来の意義について本質的な処を理解できなくなっています。


 これは賢樹院日寛師の誤りですね。この久遠元初の仏と云う教えは、江戸時代の日蓮正宗の貫首である堅樹院日寛師が日蓮教義に取り入れた事であり、これは天台宗恵心流の亜流であることが、近年になり解ってきました。でもそこでは釈迦という存在も、日蓮の迹仏(仮の姿)としてしまった事により、こういった本質的な事には眼が行かなくなってしまいました。

 そもそも法華経如来寿量品に於いて「世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ」と弥勒菩薩が人智も菩薩でさえも思惟出来ないと述べているにも関わらず、「久遠元初は久遠より更に遠い過去」という事を論じる自体がおかしな事なのです。


 ではこの「本門の因果」とは如何なるものなんでしょうか。そこを更に考えてみたいと思います。


◆本門の因果のパラダイムシフト

 本門の因果の内容ですが、これは日蓮が開目抄で「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」と述べています。ここで九界とあるのは、私達の日常ある心の姿を指しています。喜怒哀楽、悲喜こもごも様々な感情が渦巻く私達の心の動きは「無始の仏界に具し」とあるように、それらは私達の心の奥底に宿る仏の心に具わっている働きが現れたものだと言うのです。病による悩みや苦しみ、身内の死を受けての悲嘆、また地位や名誉を得て浮かれる心、肩書を剥奪された苦しみ、此等は全てが心に具わる仏の働きだと言うのです。

 また仏の働きと言うのは、久遠の過去から現在に至るまで、私達が生きてきた心の働き(九界)の中にこそ具わるとも言っています。これは喜怒哀楽だけではなく、瞋恚の心や驕慢の心であっても、生活の中での心の動きの総て。そこに仏の働きがあると言うのです。


 仏教に於ける仏とは何か。それは三惑已断と言い、煩悩を断じ尽くし、苦悩の一切ない境涯を得た存在です。しかしここではその仏が私達の心に既に備わっていると言い、その仏は私達の日常生活の中で様々な姿を顕現させているのと言う事なのです。これはどう言う事なのでしょう。それまで仏とは「理想境涯」であり「目指すべき姿」でした。しかし実はその「仏」こそが私達の日常生活の中で、喜怒哀楽など様々な働きをする根源だと言うのです。


 従来の仏教の教えでは、仏とは私達を救済する存在であり、理想とする境涯です。また三世を通暁すると言いますが、過去から未来にかけた全ての出来事を見通しているとも言います。この境涯を得るために仏教では様々な修行をします。形は変われど創価学会でいう「永遠の幸福境涯」というのも、似たような事を志向しています。

 その仏の心と私達の心の働きが、互いに具わり合い互具するとはどういう意味なのでしょうか。そもそも、そんな素晴らしい境涯を私達が本当に持ち合わせているのでしょうか。そうであれば何故、私たちは日常生活の中で様々な問題に直面し、悩み苦しむ事があるのであろうか。


 ここで十界論を振り返り考えてみたいと思います。


 よく仏教の基礎教学として「十界論」というのが言われます。この十界論とは心の動きを十に分類した論であり、所謂「地獄」から「仏界」までの事ですね。そしてこの論では十界を横並びに論じていますが、こと「仏界」については詳らかに述べていません。日蓮も「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」においては「仏界ばかりは現じ難し」と言い、九界が在ることを推して仏界というのを信じるしかないと言うに留めています。

 地獄界:苦しみの境涯

 餓鬼界:有形無形な事に飢える境涯

 畜生界:本能の赴くままの境涯

 修羅界:他者に対する怒りの境涯

 人 界:平穏な境涯

 天 界:喜びを楽しみの境涯

 声聞界:真理を模索し学ぶ境涯

 縁 覚:縁に触れ気付きを得る境涯

 菩薩界:他者への慈しみ、施しの境涯

 仏 界:仏の境涯

 法華経以前の権経では、仏とは妙法蓮華経方便品第二に説かれる様に「仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。」と、成仏するまでの間、様々な仏の下で果てしない修行をし、精進して得られた境涯であり、それは人智の及ぶ境涯ではないと言われていました。

 しかし久遠実成を明かされた事で、実は釈迦自身が久遠の昔に成仏したという事になり、それまで釈迦が修行をしてきた姿(九界)は仏の境涯(仏界)を得た後の姿として変化しました。つまり修行の姿そのものが仏の境涯からの発露だったと言う事になるのです。また燃燈仏と儒童梵士(過去世の釈迦)の物語がありますが、これは仏と弟子が、ともに久遠に成仏した釈迦の姿であり、ともに久遠実成の釈迦の出現した姿となりました。


 また久遠実成を明かすことで、仏とは目指す境涯ではなく、そもそもある本来の自分の姿の根源という事に変化しました。これによって修行の目的とは何かを悟る事でも、何か特別な事を知るという事も無でもなくなりました。大事な事は自分自身の本来の姿を理解する事であり、それは当に法華経の七喩の主旨にも合致します。


 三車火宅の譬喩や長者窮児の譬喩の中での長者と子供、衣裏繋珠の例えの男と親友、良医病子の医者の親と多くの子供たち。これらはいずれもこの姿の事を指し示しています。


 この事について現代語でより平易な表現で表すのであれば、どの様な表現が良いのでしょうか。九界とは日常的な生活の中での心の働きや境涯を指し、その心の働きは常に仏の働きがあって起きているという事。つまり横並びの十界ではなく、仏界とは九界を起こす本源的な心と言っても良いかと思うのです。そして「仏界ばかりは現じ難し」とありますが、仏界は九界の動きでしか知ることが出来ない。仏の境涯として九界とは異なる姿を表す事でもない。そういう事だと思うのです。またこの仏界とはすべての人の共通の心の基盤の様に存在するものだと法華経には説かれています。これは久遠実成を明かした時、燃燈仏と儒童梵士が共に久遠実成の釈尊の姿として説かれていることから解ります。過去世に於いて師匠と弟子という異なる人格も、共に久遠実成の釈迦の姿だと言うのです。「私と貴方」「師匠と弟子」、人は他者と分離して考えてしまいますが、ともに同じ存在だという事になるのです。


 これが大乗仏教に於ける大きなパラダイムシフト(思考転換)で無いというのであれば、そもそも仏教とは何かを問い直さねばなりません。


 さて、人々が共通の心の基盤として、久遠実成の釈尊という仏の境涯(仏界)を持っていたとして、それまでの仏教の成仏観(四教の因果)が本門の成仏観(本門の因果)に変わる事で、どの様な思考の変化、つまり仏教上からみた人生に対して捉え方が変わるというのでしょうか。


 人生には幸せな事もあれば、不幸せな事もあります。不如意な出来事にもめぐり逢い、何故自分はこの様な目に合わなければならないのか。そう自問自答する人は多いでしょう。宗教はそういう問題に対して、或いは神に対する原罪の為だと説き、或いは過去行いによる宿業の故と語ります。

 仏教では業因業果を説き、自分自身に降りかかる事は、全て過去世に行った宿業の報いだと説いています。つまり過去世に盗賊であれば、今世では貧乏人となり、過去世に仏教を誹謗したなら、今世では邪見の家に生まれると説かれていました。そしてそれを変えるためには、罪を滅して行くしか無く、仏教の修行とはその罪障消滅の為だととも教えていました。これが「因果の理法」という考え方です。

 しかし実は宿業を持ち、罪障を抱えている人が、久遠の昔に成仏しており、その姿が今の姿であり、そこで様々な苦悩を受けているとするのであれば、この業因業果や宿業、そして罪障という考え方も変わらなければなりません。何故ならそういった様々な苦悩や問題は全て成仏した結果として得ているという事になるからです。過去世の行いの結果だという事では無くなってしまいます。


 これはどういう事なのか。なかなか理解しがたい話なのですが、私はこれを現代語にするなら「予定調和」という言葉が一番近いと思うのです。「予定調和」とは何か。それは様々な出来事は偶然ではなく必然として起きる事を言います。例えばある人に何か不運な事が起きたとします。世間ではこれを「偶然に起きた事」と捉えます。これはよく言う「幸運だった」「不運だった」という言葉で表されます。しかしこれまで仏教では「因果の理法」という観点から業因業果論でこういった事を捉えてきました。善業による御利益、悪業による不運。そういった処でしょう。でも「予定調和」では「起きるべくして起きた」と捉え、それは「予定されていた事」と考えるのです。そこに「善悪」という「過去世の因行」は存在しなくなってしまいます。


 この人生の出来事については「因果の理法」という事が、人々にとっては理解しやすい事なのですが、こと「予定調和」となると、これがなかなか理解を得る事が難しい事です。私自身もこの事について理解するためには多くの思索が必要でした。何故なら人は良いことに巡り合った時には、その事は受け入れやすいと思いますが、不運や不遇にあった時、それが予定調和(起きるべくして起きた)という事を受け入れることは容易ではありません。例えば貴方が交通事故にあったとして、それが「起きるべくしておきた事」であると言われても、安易に受け容れられないでしょう。また極端な例を挙げますが、不運な事件に巻き込まれて起きた死という現実も、予定されていた事と言われるのは、多くの人からは拒否されるに違いありません。


★宿業は願兼於業

 じつは仏教の中でも「因果の理法」とは異なる観点で、宿業を捉える考え方があります。それが「願兼於業」という考え方です。これは「修行によって偉大な福徳を積んだ菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、わざわざ願って、自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に生まれること」を言い、日蓮も自身の姿を通して開目抄の中で述べています。


「経文に我が身普合せり御勘気をかほればいよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申してつくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし」


 ここで日蓮は自分の姿を小乗の菩薩の姿と照らし合わせ、自身が幕府から迫害を受けている姿もこの「願兼於業」の様なものだと言っています。また法華経如来寿量品で久遠に成仏した釈迦も「我本行菩薩道(我本菩薩の道を行じて)」と述べ、この娑婆世界に出現した姿として菩薩の道を行じて来たとあり、その為にジャータカ伝説の様々な過去からの苦悩の姿もこの「願兼於業」によるものだと言っても良いでしょう。


 しかしこれは釈迦という仏の話であって、私たちとはかけ離れた事なのではないか。こういった話をしても多くの人はその様に考えるかもしれません。しかし近年、欧米で行われてきたNDE(Near-Death-Experience「臨死体験」)の研究結果の中に、この事を示唆する研究結果について語られても居るのです。


 これはJ.L.ホイットンという、アメリカのトロント大学で主任精神科医の博士が著した「輪廻転生・驚くべき現代の神話」という本の中で語られています。


 ホイットン博士は十四歳頃から催眠家の腕を発揮してきた人物で、希望者を相手にパーティーの席などでこの技を使うことがあったと言います。しかし前世へ誘導しようと試みたことはまだなかったのですが、二十代はじめのころ、博士は輪廻転生思想に次第に惹かれていき、催眠技法にさらに磨きをかけていき、人の無意識下にある理解を深めようとしました。精神科となった博士が催眠下でトランス状態の被験者たちに精神的外傷の原因となった過去世の記憶を意識にのぼらせるよう指示し、それと向き合う事で多くの被験者(患者)たちは、めきめきと劇的な回復をとげました。しかしなぜそうなるのか、博士自身にも満足のいく説明は出来なかったのです。そもそもこの当時、博士は「前世」という事を信じておらず、精神科医として治療の成果を見て、この療法に取り組んでいたそうです。

 ある時、博士は精神療法の一貫として何時も通りに患者を「前世」へと誘導をしていました。しかし何時もは「亡くなった前の生」へと誘導するところ、「亡くなった前の時」に誘導してしまいました。すると患者の表情は混乱と恍惚の入り混じった表情となり、語り始めたのは中間世(仏教でいう中有、死後の世界)の事でした。そこでは長老達がいて、被験者の前世の振り返りがあり、経験として何が不足しているのか、また自身の人格的な成長で何が不足しているのか省みる事になるそうです。そして「次の生」に対する計画が練られ、そこでは必要な課題(仏教で言う処の業)を与えられて生まれてくると言うのです。

 この話は俄には信じ難い話ですが、博士が多くの患者をそれから中間世に誘導し、調査した処、多くがこの例に漏れず、この様な事から課題(宿業)を背負って次の生に生まれてきた事を語りました。そしてそこから博士は「業とは魂に必要な課題を解決するため」に、中間世で計画され、持って生まれてくるものであり、因果により持ち合わせるものではないと結論を付けました。つまり盗人をしたら貧乏人になるとか、殺人者だから次の生で殺されるという事では無いと言うのです。これは仏教でいう「願兼於業」の捉え方だと思います。

 博士はこの「中間世(死から次の生までの期間)」をチベット仏教で呼ぶ「バルト(川の中州の意味)」と呼び、そこで自分自身が決めて持ってきた課題を認識し、それを解決する事で実は人生にある多くの苦悩や問題は解決する事も多くの症例の中で見つけ出したのです。


 私はこのホイットン博士の著書を読んで驚いたのは、仏教の思想にとても親和性のある中身が、催眠療法という人を深層心理に誘導する手法の中で確認され、精神科医の症例の中で証明されているという事からでした。またこれ以外にも近年確認されている多くの臨死体験例から、このホイットン博士の確認した内容に親しい話がある事も注目に価すると考えています。


★四教の因果と本門の因果のまとめ

 さて、そろそろ本章についてまとめに入らなければなりません。日蓮が開目抄で語った四教の因果と本門の因果について、この四教の因果は人々に「人の心の本来の姿」を理解させる為の「仮の教え」であり、仏教で言えば当に「方便」の教えと言っても良いでしょう。しかしそこに執着してしまっては、結果として人々は仏教を「救いを与える教え」としか認識させる事が出来ません。いま日本の仏教の大半はこの「ドグマ」にハマり込んでしまい、仏教本来の教え(法華経の教え)を理解出来ずにいます。大半の寺院では「如来」や「仏」に対して御すがりする事で救済を願う事だけを教えて居ます。そしてこれは創価学会や顕正会でも同じであり、日蓮に御すがりし、日蓮の顕した文字曼荼羅に救済を祈り続けています。

 またこれを俯瞰して考えれば世の中の宗教全般も同様な縮図を持っています。そこでは信徒たちは超絶的な存在を信じ、それに対して救済をもとめて祈っています。


 しかしこの事によって宗教を信じる人達は、自ら進んで宗教の下僕になる事に甘んじてしまっています。過去にドイツの哲学者であるカール・マルクスが「宗教はアヘンである」と看破した様に、人々は宗教に依存し、その宗教に操られてしまっているのではないでしょうか。


 「本門の因果」とは、その様な人類がハマり込んでしまう宗教のドグマから人々が解放する視点を与えてくれるものだと私は思うのです。そしてそれによって人類は、本当の意味での精神的な自由と自律を手に入れる事が出来るのかもしれません。

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