top of page

仏教について(釈迦とは)

 私が二十歳前の頃、同世代の知人の幾人かが亡くなりました。ある人は交通事故で、またある人は不治の病で、中には事件に巻き込まれ亡くなった人もいました。私は彼らの葬儀に出る度に、私達はどこから来て、どこへ行くのか。そんな事を何時も考えていました。

 そんな時、創価学会に居る先輩に仏教について話を聞き、日蓮と彼が説いたという日蓮仏法を知りたいと思い、組織活動を始めたのです。


 ここでは以降の私の創価学会での経緯は割愛しますが、これまでの四半世紀の間で私が学び、理解した仏教の事について、少しまとめてみたいと思います。


◆釈迦について(主な出典:Wikipedia参照)

 仏教の開祖は釈迦だという事は、誰もが知っている事です。

 釈迦は実在した人物と言われていますが、その存命期間については正確には記録されておらず、紀元前7世紀から5世紀の間と様々な説があります。また名前の釈迦というのも、彼の出身部族がシャーキャ族の名称から来ています。またゴーダマ・シッタルダという名前とも言われていますが、釈迦の父方の従妹であった阿難(アーナンダ)もゴーダマと言われていますので、これが姓だと言う説もあり、シッタルダとは「目覚めた人」という意味もあるので、「ゴーダマ族(姓)の目覚めた人」という意味であるとも言われています。たまからこれも正確な名前では無いと言われています。こういった事もありますが、本文書では以降、「釈迦」と呼び、その生涯について簡単ではありますが、紹介をしていきます。


誕生から青年期

 釈迦は古代インドにあったコーサラ国(インド北部にあった王国)の属国であった釈迦族の王子として誕生しました。父親はシュッドーダナ王(浄飯王)、母親は隣国のコーリヤ国の執政の娘、マーヤ(摩耶)として、その間に誕生したと言います。釈迦が誕生の時、マーヤは出産の為に里帰りの途中、カビラバストゥ(迦毘羅衛)郊外にあるルンビニで誕生したと言います。母親のマーヤは釈迦を出産後、産後の肥立ちが悪かった為なのか、七日後に亡くなりました。その後、カビラバストに戻った釈迦は、マーヤの妹であるマハープラージャパティ(後に摩訶波闍波堤比丘尼)が乳母となり育てられる事となったのです。

 誕生した釈迦を見た、カビラバストゥを訪れていたバラモンの仙人が「この子は王となれば、世界を統治する王となり、修行者となったら仏陀(覚者)となるだろう。残念な事は、その姿を私は見る事が出来ない事だ」と涙したという逸話がありますが、これは正確な逸話かは不明です。


 釈迦は釈迦族の王子として、期待を一身に集め育てられたといいます。二つの専用宮殿や贅を尽くした衣装、専門の世話係に教師を宛がわれ、教養と体力を身に着け成長しました。しかしその一方で、生まれた時に母親を亡くした事が影響してでしょうか、とても内省的な性格の青年として成長したとも言われています。


 釈迦が出家を意識した事について、故事として語られている説話に「四門出遊」というものがあります。


 ある時、王子であった釈迦がカビラバストゥの東門から出ようとすると、そこで衰えた老人に出会い、人には老いる事の苦しみがある事を知りました。そして南門を出ようとすると、今度そこでは病気で苦しむ人に出会い、人は病で苦しむ事を知りました。また西門から出ようとすると、そこには死体があり、人は必ず死ぬという事を知りました。北門から出ようとすると、そこには一人の沙門(修行者)が居て、その清らかな姿に深く感じ取るものがあり、出家の志を得たと言う説話です。

 この「四門出遊」についても、実際にその様な出来事があったかについては判りません。ただ青年期の釈迦は、人生の苦悩(後に生老病死と言われる苦悩)を若くから認識し、それら苦悩を解決する事は出来ないかという思いがあったのではないでしょうか。そしてその解決の方法として、当時のインドにあった沙門(修行者)になる事を考えていたのかもしれません。


 恐らく若くして沙門になる事を考えていた釈迦ですが、16歳(19歳という説もある)の時に、母方の従妹であるヤショーダラー(耶輪陀羅)を妃に迎え結婚し、後継ぎ息子としてラーフラ(羅篌羅)が生まれます。王子であり、若くして結婚し子供も生まれた釈迦は、人生順調にも見えましたが、その心の奥底には常に人生の無常や苦悩を痛感していました。そして29歳になった時、人生の真実を求めて出家を決意したと言います。


出家

 ある深夜に釈迦は城を抜け出して、髪を剃り落とし、当時は大国であったマカダ国こラージャグリハ(王舎城)を訪れました。この時、ビンビサーラ王(瀕婆沙羅王)からは出家を思い留まるように説得されたと言いますが、釈迦はこれを断っています。


 当時のインドには「六師外道」と言われるように、新しい思想潮流が起きていて、出家した釈迦はまずバッカパ仙人の元を訪れました。バッカパは死後に天上界に生まれる事を目標としていましたが、天上界の喜びも尽きれば六道輪廻する事を理解し、その元を去りました。次に釈迦はアーラーラ・カーラーマの元を訪れました。ここでは「無所有処定」という境地を求めていました。これはいかなるものも、そこには存在しないという空観の境地を求めていましたが、釈迦はこれも求めるものではないと理解し、その元を去りました。その次に釈迦が訪れたのはウッダカラーマ・ブッダの元を訪れました。ここでは「悲想非非想処定」という境地を求めていました。これは有頂天という天上界をもって涅槃とする思想でしたが、これも釈迦の求めるものでは無かったので、その元を去ったのです。ここでは釈迦は三人の師の元を訪れましたが、いずれの師も釈迦の卓越した資質を理解し、ぜひ後継者にと求めたと言いますが、釈迦はこれら思想は悟りの道に至るものでは無い事を理解して、彼ら師の元を去ったのです。


 釈迦はこの三人の師の思想のいずれも悟りの道には至らないと理解した事から、ワーラーナシーのウルヴェーラ(苦行)林に入り、苦行に徹する事にしました。これを知った父親のシュッドーダナ王は釈迦の警護もかねて、五人の沙門(後の五比丘)を釈迦の下に送りました。苦行林に入った釈迦は、そこから六年間の間、徹底した苦行を実践しました。この徹底ぶりは、周囲の沙門が「このままではいずれ釈迦は苦行により死んでしまうだろう」と思うほどでした。またこの苦行の期間、釈迦はわずかな水と豆類などで過ごしたのですが、こういった断食行為は心身ともに極度に消耗させるものであり、釈迦の肉体は骨と皮のみという姿になったと言います。この苦行を通して釈迦は「過度の快楽が不適切であると同様に、極端な苦行も不適切である」と悟り、苦行林を去りました。しかしこれを見た五人の沙門は「シッダールダは堕落した」と釈迦を罵ったと言われています。


悟り

 すでに35歳となっていた釈迦は、ガヤーのほとりを流れるナインジャナー川で沐浴した後、近隣の村の娘のスジャータから乳粥の施しを受けて体力を回復したのち、ビッパラ樹(菩提樹)の下に座り瞑想に入ったと言います。この瞑想に入る際、釈迦は「血が枯れて、肉がただれ、骨が腐っても悟りを開くまで、この場所を絶対に立たない」と決意をして瞑想に入りました。この瞑想は一説には21日間の間続けられたと言いますが、この間、釈迦は過去世へと思考を巡らせ、それぞれの過去世における自分を思い出し、それはこの宇宙の生成の時まで遡り、さらに幾つもの宇宙の生成と破壊をも思い返していったと言います。そして終盤になるとマーラ(天魔)が現れ、様々な誘惑の言葉を投げかけましたが、釈迦はそれをもはねつけました。(これを降魔と言います)そして明け方、東の空を見上げそこに明星を見た時に、釈迦は悟りを得たと言います。


 この瞑想によって、釈迦は何を悟ったのか。実はこの部分についての詳細な説明については、いずれの仏典にも書かれていません。ただこの釈迦の悟りが、後に四諦、十二因縁といった様々な仏教の思想へと展開されていきました。


 悟りを得た釈迦はその後七日間にわたり、その悟りを楽しんだと言います。そしてこの悟りを人々の間に説くべきか、28日間にわたり悩みました。そして「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」という結論に至りましたが、ここで大梵天王が釈迦の前に出現し、人々に対してこの悟りの内容を説く事を求めたと言います。(これを梵天勧請と言います)この求めは三度に渡り、それを受けた釈迦は人々の中で、この悟りを説く事を決意したと言うのです。


 この開悟から伝道への決意までの描写は、恐らく釈迦の己心の中の葛藤を描いたものであり、それを説話として表現したものだと思いますが、釈迦も自身の悟った内容を語る事に、大きな逡巡があったという事なのでしょう。


教化と伝道

 釈迦はまず自分が教えを受けた師に対して、法を説く事を考えたと言いますが、この時にはすでに師匠は死去していた事を知り、ともに苦行林で修行をしていた五人の沙門に法を説く事にしました。

 ワーラーナシーのウルヴェーラに到着した釈迦は、五人の沙門に対して「中道」「四諦」「八正道」といった教えを説きました。これを「初転法輪」と言います。はじめ五人は苦行林から去った釈迦を蔑んでいたのですが、この釈迦の説法を聞くうち、その内容に感銘したと言います。そしてそこで五人の沙門は悟りを得て五比丘となりました。この五人に対して法を説き終えた釈迦は「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と述べたと言いますが、この言葉から五比丘は共に釈迦と同じ悟りを共有したという事が解ります。

 その後、釈迦はワーラーナシーの長者であるヤシャス(耶舎)やカピラバストゥにいたプルナ(富楼那)を教化しました。そしてウルヴェーラ・カッサパ(優楼頻螺・迦葉)、ナディー・カッサパ(那提・迦葉)、ガヤー・カッサパ(迦耶・迦葉)の三迦葉を教化しました。彼らはバラモンであり火の神であるアグニを信仰する外道で、200人以上の弟子が居たと言いますが、師匠である三迦葉が釈迦の教えに教化された事から、この弟子たちも釈迦の門下となったのです。この事から釈迦の教団である仏教教団は1000名を超える大きな勢力へと急速発展しました。


 次に釈迦はマカダ国のカビラバストゥへと足を進め、マカダ国のビンビサーラ王も教化し、王は仏教に帰依しました。そしてビンビサーラ王は釈迦に仏教教団の拠点として竹林精舎を寄進しましたが、この頃にシャーリプトラ(舎利弗)やマウドゥガリヤーヤナ(目健連)、クチラ(倶絺羅)、マハーカッサパ(大迦葉)も仏教教団に加わりました。


 ここまでが釈迦が悟りを開いた後4年前後までの行動と足跡です。この間、主にラージャグリハ(王舎城)を中心とした伝道活動を行っており、その期間、マカダ国の群臣や村長、そしてバラモンやジャイナ教徒からも多く仏教徒へと改宗したと言います。また故国のカビラバストゥの訪問では、ラーフラ(羅篌羅)、アーナンダ(阿難)、アニルッダ(阿那律)、デーバダッタ(提婆達多)、ウパーリ(優波離)などが弟子となりました。釈迦が伝道・教化した足跡について、詳細な記録は残っていませんが、ほとんどがガンジス河中流地域と言われており、様々な場所に自ら足を延ばして伝道・教化を進めたと言われています。


最晩年の記録

 釈迦が入滅するまでの最後の一年間の記録については、漢訳された「長阿含経」の中の「遊行経」や、パーリ所伝の「大般涅槃経」に記録があるとされています。それらによれば釈迦の最後の伝道は、ラージャグリハの竹林精舎から始まったと言います。


 釈迦の晩年、コーサラ国ではプラセーナジット(波斯匿王)の王子ヴィドゥーダバ(毘瑠璃王)が挙兵し、王位を簒奪しました。そこでプラセーナジットはやむなく王女が嫁いでいたマカダ国のアジャータシャトル(阿闍世王)を頼りに向かいましたが、その城門に到着する前に死にました。ヴィドゥーダバは即位すると、即座にマカダ国のカビラバストゥへと向かいましたが、この時、釈迦はまだカビラバストゥに残っており、釈迦は故国へ向かうヴィドゥーダバを、道筋の樹下に座り三度制止したと言われています。しかしヴィドゥーダバはその制止を聞かず、四度目でマカダ国は攻略され、シャーキャ国も滅亡したと言います。(釈迦族の滅亡)その後、釈迦はカビラバストゥから南下して、ラージャグリハに到着し、ここでしばらく逗留しました。


 釈迦は多くの弟子たちを従えて、ラージャグリハから最後の旅に出ました。アンパラッティカへ、ナーランダを通りパータリ村へ。そしてそこから増水したガンジス河を渡り、コーティ村へ、そしてナーディカ村へと足を進めました。その後、ベールヴァ村で最後の雨期を釈迦はすごしました。


入滅

 やがて雨期も終わり、釈迦はヴァイシャーリーへ托鉢に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かったと言います。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説きました。

 托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 に移り四諦を説き、さらにハッティ村 、アンバ村、ジャンブ村 、ボーガ市 を経てパーヴァーに着きました。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説きました。

 釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けましたが、その後、激しい腹痛を訴えるようになりました。しかしカクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラ(沙羅双樹)の林に横たわり、そこで入滅したと言います。この時、釈迦は80歳でした。


◆釈迦の生きた道  釈迦は今から三千年近く昔の人物です。時間というのは否応なく、時代を生きた人の実像を見えなくしてしまいます。釈迦という人間が80年の人生の中で示した事が、その後に仏教と呼ばれ教義体系化され、その教えがアジアに広く流布し、現在に於いては「世界三大宗教」の一つとなり、人類にも様々な影響を及ぼしました。

 釈迦の実像とは、時間の経過もさることながら、その釈迦を恋慕した後世の人々により称えられ、称賛される中で、実像を遥かにしのぐ虚像が膨らんでしまい、結果として「人間・釈迦」という姿が見えなくなっているのが実情ではないでしょうか。


 釈迦の人生を振り返ると、人々の中に入り込み、常に人の中で語らいながら自分の得た事に基づいて、人々に生きる道筋というのを示して来た人物である事が判ります。その事から後世の人間である私達は、伝説として残る釈迦の姿から、人間としての釈迦を読み解く努力をしない限り、実は釈迦の本当の言葉というのを理解する事は出来ないのではないか。


 私はその様に考え、仏教の中にある教えについて見ていく事が必要だと考えているのです。


閲覧数:58回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page