top of page

九識論からの自我の考察③

 さて、「自我」と「無我」についてここまで書いてきましたが、私は仏教を足掛かりにして、自我を捉えている自身の心の本質について、少しでも自分自身の中で、納得したいと考えています。実はこの本質を理解することで、人生の中で経験する喜怒哀楽・毀誉褒貶という、自分の中で吹き荒れる感情の荒波に飲まれる事なく、人生を全うできるのではないか。その様に感じるのです。


◆仏という存在

 仏教でいう仏という存在は、果たしてどの様な存在なのでしょうか。日蓮の如来滅後五五百歳始観心本尊抄には以下の様な言葉があります。


「問うて曰く教主釈尊は[此れより堅固に之を秘す]三惑已断の仏なり又十方世界の国主一切の菩薩二乗人天等の主君なり行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり四衆八部後に聳い金剛前に導びき八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」


 日蓮とは鎌倉時代の仏教僧ですが、彼が考えている仏とは、この宇宙にある総ての国の主であり、生きとし生ける物の主であると言うのです。だから何処へ行くにも大梵天王や帝釈天王という神々が守り、それに伴って仏は多くの神々を従えている尊極な存在と言うのです。まあ現代的に言えば、この世界を徳に依って従えている存在であり、持てる能力はそれこそ超能力者でこの世界を知り尽くしている存在。まあ表現は適切ではありませんが、それこそ「神様」の様な人物と言っても良いでしょう。


 そんな存在が私達の心の本質としてあると言うのですから、日蓮でなくても信じられないという事になるでしょう。

 私自身に引き当てて考えてみれば、太宰治ではありませんが、人間を半世紀近くやってきて、本当に「恥多き人生」を生きてきてしまいました。今でも日々つまらない事で悩み、来年どころか来月もどんな生活をしているのか、心許ない存在です。そんな私の様な者の心の本質が、実は総てを知り尽くして、悟りを得ている聖人と同じものがあると言われても「はい、そうですか」とはなりません。


◆臨死体験者からの報告

 ここで少し話題を変えて、チベット仏教の「生と死の書」に書かれていた事を見てみましょう。前にも触れましたがチベット仏教とは、もともとチベットにあったボン教という土着宗教と、大乗仏教(密教系)が融合したものですが、彼らチベット人が生活しているのは海抜四千メートル越えの高地で、とても厳しい環境です。そこでは常に人々は死と隣り合わせに生きています。だから死に対する洞察は、恐らく日本の仏教とは比較にならない程深いものだと思います。

 そんなチベット仏教では、人が死にゆく過程をとても重要視しているのは、その時、日常では認識する事が出来ない私達の「心の本質」が浮かび上がってくるからだと言うのです。彼らは死の間際に出会う事のできるこの「心の本質」と一体になることで解脱が得られ、この世界に輪廻転生するという縛りから抜け出す事が出来ると考え、それこそが仏教でいう解脱であると信じているのです。


 欧米では近年になりNDE(Near Death Experience 臨死体験学)による研究が進んでいますが、そこで語られる臨死体験者の報告の中に、このチベット仏教でいう「心の本質」に近しい事例が、実は幾つか語られています。


・アレクサンダー氏の体験(プルーフ・オブ・ヘブンからの抜粋)

「私はその場所で、無数の宇宙に豊かな生命が息づいているのを見た。その中には人類よりはるかに進歩した知性を備えるものたちもいた。数限りない高次の次元があることも知った。高次の次元は、その中に入り、直接体験するかたちでしか知る方法がないこともわかった。低次の次元空間からは、高次元世界は知る事も理解することもできないのだ。因果の関係は高次元にも存在しているが、この世界の概念とは異なっている。またこちらの世界で体験されている時間空間は、いくつもの高次元に複雑なかたちで密接に織り込まれている。言い換えれば、高次元の世界はこの世界と完全に隔絶しているわけではない。あらゆる世界がそれらをすべて包み込む神聖な「真理」の一部分を構成しているのである。」


・J.L.ホイットンの報告 (輪廻転生 驚くべき現代の神話から抜粋)

「ホイットン博士は中間世の人間の意識が、今生での過去に退行したり前世に退行したりしているあいだに経験する意識より、はるか高い程度に達することを知った。この意識は、私達の現世にとらわれたリアリティーという概念を遥かに超えるもので人生を別の角度から眺めることを可能にしてくれる。中間世の状態では、俗に言う「善悪の判断力」が拡大して、心のイメージですべてを見通す力がさずけられるため、人間存在の意味と目的をはっきりと理解できるようになる。ホイットン博士はこの並外れた知覚状態を「超意識(メタコンシャスネス)」と名付けている。」


・木内鶴彦さん臨死体験 Hawaiiインタビュー

「意識は三次元を越えているものなんです。五次元という事なんですけれども、五次元とは三次元を作り上げている素材なんです。それが意識体。だから誰それとか個人とか、個々に存在する訳ではなく、空間で言えば煙みたいな存在なのかもしれない。分る為に色をつけるという。その煙が一人ひとりにくっついているだけで、亡くなると離れて行って全体になっちゃうでしょう。それと同じ事」


 ここでは代表的な例を2例ほど提示しましたが、いずれの話でも死に臨む経験をする中で経験したのは、チベット仏教の中で言われる「心の本質」に近い存在をリアリティをもって体験しているという事なのです。


◆自我の姿

 この臨死体験者からの経験から考察出来る事ですが、私たちが「私=自我」というのは、いわば一つの執着としての意識であり、その本当の姿とは、前の章でも少し触れた事ですが、仏教の唯識派の論から言えば、阿頼耶識という「業=記憶」から生じるものではないかと考えています。そして私達が日常的に意識として感じている心の働きとは、先の「心の本質」、これは妙法蓮華経で説かれている「久遠実成の釈尊」という仏、また天台大師智顗や日蓮が言う処の「九識心王真如の都」という阿摩羅識を指しますが、そこの働きが先の「私=自我」という事を通して出現している働きなのではないでしょうか。


 この様な構造からすると、個々には「貴方」「私」と区別を感じていますが、その根源的なものは共通の「心の本質」から起きている事であり、この日常生活では個々に区別として認識されていても、実は共通の「心の本質」から起きている働きであり、そういう観点から見たら「私=自我」というのは存在しないという事になるのかもしれません。そしてそれが仏教でいう処の「無我」という考え方に連なっているのではないかと思うのです。


閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page