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九識論からの自我の考察②

 さて、掲題の話を続けます。


 前の記事では「自我=意識」について、西欧文明では「自我=決める主体」というのを認めていますが、近年では「無我」という概念が受け入れられ始めている事を示し、そこで「ミリンダ王の問い」にある「無我」について紹介しました。そして法華経の一念三千と、九識論から考えた人の心の重層的な構造について紹介したところで終わりました。


◆自我の姿

 仏教では「無我」を説きます。この「無我」とは、全ての物事は無常であり変化を続ける(諸行無常)、そこに「我」「わが物」という考えで固執(我執)してはならない。我執を打破して真実の「我(アートマン)」を自己の上に実現すべきである、という事から来ています。先に紹介したミリンダ王との対話の中で、仏教の長老であるナーガセーナは「自我」というのは、どこかにある存在ではなく、それは肉体の様々な機能の上に存在(縁起)として存在する事をミリンダ王に対話を通して気付かせました。つまり自我 とは縁起の上に存在するものであって、永遠不変の存在では無い事を示したのです。


 これはとても理解しづらい考え方かもしれませんが、ここで「我執」という言葉が出てきます。この我執とは、この自我が恒に存在する事と錯覚し、それは周囲とは完全に独立した存在であると錯誤している事を指します。


 皆さんも「あと一時間後に死ぬ」とか、日常生活では考えないでしょう。また他者と自分の自我は完全に分離独立した存在であり、「人は人、私は私」という意識のもとで生活をしているのではないでしょうか。これらの事を「我執」と呼んでいるのです。そしてこの我執から、自分の周囲にあるすべての物に対して執着する心を起こし、結果としてその執着が人生の中で多くの苦悩を生起すると初期仏教では説いていました。だから永遠に存続し、周囲から完全に独立した「自我」を否定するために「無我」という教えを説きました。


 私はこの初期仏教の考え方というのは、半分正解であり、半分は誤解を招く考え方だと思うのです。人は如何なる権威や権力、また財力の有無にかかわらず、必ず「死」を迎えていく存在です。そして「死」を超えて持っていけるものは業(記憶)しかありません。そこを考えると、自分に対する執着である我執や、そこから派生するこの娑婆世界に対する様々な執着というのは、死を前に苦悩を惹起する要因になっていきます。その為に、生きている時から無我を意識する事で、少しでも我執を弱める事は、人生の苦悩を少なるする為に有用な事だと思います。しかし一方で、人間というのは執着なくしては何事も無しえない部分があります。また「自分自身を信じる=自信を持つ」という事についても「自我」を信じなければ持ちえる事は難しいのです。


 私はその為にもこの仏教で述べている「無我」という事、また「自我」の姿について、私なりにここで解釈を進めてみたいと思うのです。


◆日蓮の述べた事

 ここで再度となりますが、日蓮が述べた言葉からこの自我の姿について考察を改めて進めてみます。先に一念三千と九識論について少し紹介をしましたが、そこを足掛かりとして考察します。

 まずここで理解しなければならない事は、十界論でいう「仏界」とは、他の「九界」とは横並びにある境涯では無いという事です。前の記事にも少し紹介しましたが、この事については開目抄では以下の様に述べられています。


「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」


 ここでは大乗仏教で、法華経に至ってそれまでの「成仏」という概念を破壊したと言っています。仏教では「悟り」を開いて「仏になる=成仏」する事を、それまでの教えの中で説いてきました。しかし如来寿量品では、その仏の概念を壊したのです。


 それまでの仏とは「三或已断」とも言いますが、全ての迷いを断った至高の存在として説かれていました。しかし如来寿量品では久遠実成を明かす事で、釈迦はこの娑婆世界で生まれてから修行をして悟りを開いて成仏したのではなく、久遠という計り知れない過去に既に成仏をしていたと言うのです。こうなるとここで四教と言いますが、華厳・阿含・方等・般若という時期で言われていた従来の「成仏=修行の結果」というのは完全に否定された事になります。幾世代にもわたり生死を繰り返し、修行する果てに結果として仏になったというのでは無いのですから。要約して言えば、元々から仏であったという事になるのです。そうなるとこれまで言われてきた仏道修行という意義も大きく変わってきます。何故ならば既に仏でありながら、修行を行ってきたという事になるのですから。それをここでは「四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ」と言っているのです。

 この様に成仏という概念と、その成仏の為の修行の関係性が否定されたのであれば、当然、それまで言っていた十界の因果(悩み苦しみの九界、そこから脱却した仏界)というのも、当然、否定される事になるのです。十界論では「仏界」を「仏の境涯」と捉え、何物にも屈しない、悟りの境地と言っていました。では久遠に成仏した釈迦はどの様であったのかと言えば、常に苦悩を感じ、そこから脱する事を求めて菩薩の修行をしてきたと言われていますが、その成仏を求めて修行し続けて来た過去世の姿も、成仏した後の姿になってしまいます。つまり成仏したとしても悩みや苦しみから離れる事は無いというのです。だから「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す」と日蓮も述べて、ここから明かされる十界の因果(修行と結果)こそが、本門(真実)なんだと言っているのです。ではその「本門の十界の因果」とはどの様なものなのでしょうか。


 日蓮は続けます、「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」。十界の内の九界、これは地獄から菩薩までの心の動きですが、私達が日常の生活の中で感じる心の働きには、根源的な仏界というのは常に具わっており、その仏界によってこの心の動きは生じているというのです。また仏界というのも、私たちが過去遠々劫からあった心の動きの背景にあったと述べ、その考え方こそが本当の意味で言う一念三千の意義だと述べています。


 つまり仏界というのは、私たちが日常感じている心の動きを根源的に起こしている存在であって、それは過去から未来に渡って変わる事の無い姿なのだと言う事だと、私はこの日蓮の言葉を理解しました。仏とは目指すべき心の姿でも無ければ、そこで完全な安楽した境地を確立するという事ではなく、そもそもその心の働きを起こしている根源的な存在であると言うのです。これは大きな思想的な大転換であると思います。


 また御講聞書には以下の記述があります。


「本果は果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり」


 これによれば、九識論でいう九識(阿摩羅識)とは仏界の異名であると言うのです。九識論では全ての心の働きの根源的な識(心王)を阿摩羅識と言っていますが、これは先に述べていた「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて」という事でいう仏界と同義になります。だから十界論での仏界と九界は、同列な横並びに捉えるものでも無ければ、目指す境涯という事でもなく、私たちの心の働きの根源に存在するという事と捉える事が出来るのです。


「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」

(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)


 心の根源的な存在が仏界という事であれば、日蓮も観心本尊抄で述べた「仏界計り現じ難し」という事も理解できます。もしこの仏界を観じるのであれば、それは内観という修行を通じてでしかないでしょう。中国における天台宗も、現地では「禅宗」と呼ばれる程に修行の際には座禅による内観を行っていたと言います。一念三千に於いても、これは天台宗で内観を行う際の手ほどきとしての論であったというのも合点が行きます。


◆私たちが自我と感じる事

 さて、ここで私達が「自我」と感じている事について、少し考えてみたいと思います。仏教においては思慮する識(心の働き)とは、六識(意識)と七識(末那識)の2つがあると言われています。ただ六識とは意識を失った時や入眠する時には消失するのに対して、七識はそういった事でも恒に人の心として働ていると言います。そしてこの七識こそが自我の本質とも言われていますが、この七識が如何にして自我を感じるかと言うと、八識(阿頼耶識)に依処として感じていると言うのです。これはつまりどういう事かと言うと、過去から続く一貫した記憶を元に、七識は自我を感じていると言うのです。


 八識(阿頼耶識)とは蔵識とも言われる様に、過去からの行い(業)を一貫して蓄えている心の働きだと言われています。皆さんも少し考えてみれば解ると思いますが、自分が自分たる所以とは、記憶に基づいているのです。生まれ出た時からの記憶、今まで経験した様々な記憶、そして忘却したと思われる様々な一貫した記憶があるから、この「私」という存在(自我)を感じているとは思いませんか。

 昨年の今頃はこんな事をして、その時に私はこの様に感じてこの様に行動した。そしてその結果こうなってきた。そういう事が「自己の一貫性」の上に感じる事が出来る。そこに「自我」を感じ仏教の説く「我執」というものも起きて来ています。そしてこの「我執」は七識(末那識)から起きていて、それが六識(意識)をも突き動かしているという事なのです。


◆九識について

 さて、八識を「蔵識」と言い、そこを対鏡とする事で自我を感じる七識(末那識)、そしてその自我によって我執を生じ、日常生活で思惟し判断する六識(意識)という事だとした場合、九識(阿摩羅識)とはどういう位置づけになるのでしょうか。これは様々な解釈がありますが、私が思うに、この九識こそが全ての心の働きの根源であり、私たちが日常生活の中で感じる喜怒哀楽の感情、また様々な精神的な活動とは、この九識から起きていると考えているのです。七識(末那識)が自我を感じ、そこに我執という念を生じる根源にも、この九識が関与しているのではないでしょうか。先に日蓮が開目抄で述べた「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」というのは、この事を指し示していると私は考えますし、人生の楽しみも喜びも、そればかりか悩みや苦しみも九識(阿摩羅識)により起きる事であり、仏界という境涯が、それを起こす根源の心である。


「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」

(日女御前御返事)


 日蓮は門下である日女御前に、文字曼荼羅の意義について、の様に述べていますが、これはつまる処、そういう事を説いているのではないかと思うのです。


◆無我についての考察

 さて、少し入り組んだ内容を書いてきました。これは形而的な内容で、読んでいる人も多くは「何を言っているんだ」と思われるかもしれません。この九識が心の働きの根源を成しているとして、それが一体どういう事に繋がるのか、恐らく思われるかもしれません。


 再度述べてみたいと思いますが、九識とは仏界であり、日蓮の言う本門の本因本果とは久遠実成により大転換された「仏界=仏」というものでした。そしてこの仏という存在は、十界論で言われる様な、地獄から菩薩までの九界と横並びになるものではなく、仏界と九界は相互に関係性を持ちながら、私たちの心を成すものであると言いました。そして法華経でいう「仏界=仏」とは、久遠実成の釈尊であると説かれています。


 久遠実成の釈尊とは、計り知れない久遠に悟りを開き、様々な仏の姿を取りながら、この娑婆世界で法を説きながら人々を導いて来たと言い、仏典に説かれている「燃燈仏」も久遠実成の釈尊であった事を如来寿量品では明かしています。勤行する人であれば、どこに説かれているか、ご存知のはずです。しかしこの「燃燈仏」とは、始成正覚の釈尊(インド応誕の釈迦であり、久遠実成を明かした釈迦)の前世では、師匠であり来世での成仏を約束した仏なのです。つまり師匠である「燃燈仏」も、その弟子であった前世の釈迦も、共に「久遠実成の仏」が娑婆世界に出現した姿であると、法華経において明かされるのです。それだけではありません、過去世の釈迦の姿も、経典で説かれている、それぞれの過去世で釈迦が出会ったと言われる仏菩薩も、共に久遠実成の釈尊の姿なのです。


 私達はそれぞれに「自我」持ち、独自性をもって他者とか分離されて存在すると考えていますが、しかしこれらは全て七識(末那識)による「我執」であり、法華経の久遠実成の釈尊の立場から見れば、共に同じ存在だと言う事が、この法華経によって明かされた事になります。つまり「自我」というのではなく「無我」であり、それぞれに過去世からの記憶を持ち、単に「自分」という独自性をもった分離した存在だと錯誤しているだけだと、この法華経は説いているのではないでしょうか。


 そしてそれこそが「我執を打破して真実の「我(アートマン)」を自己の上に実現すべきである、」という「無我」に通じる思想であると、私は考えているのです。


参考:WikiDharma(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8)

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