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九識論からの自我の考察①


 果たしお「私」ずはどういった存圚なのでしょうか。これは圢而孊的にも昔から語られおいる呜題でだず思いたすが、明確な解答は今の科孊では出せおいたせん。珟圚の「脳科孊」の分野から蚀えば、私たちが日垞実感しおいる「自我」やその粟神掻動ずは、倧脳皮質のシナプス䞊の「化孊反応」ずも蚀われおおり、その奥には䜕ら「非物質的な動き」を認めおいたせん。簡単に蚀えば、私たちの粟神掻動ずは、芁は五感から入力された情報を、倧脳皮質を始めずする脳組織内の化孊反応や電気信号による凊理の結果でしかないず蚀うのです。


 YoutuberのNaokiman Showでは「人類最倧の謎、意識の正䜓ずは」ずいう動画を出しおいたすが、この「私」を感じる「意識」ずいう事に぀いお動画を挙げおいたした。



 たた東京倧孊の名誉教授で医孊博士である逊老孟子氏は、「自我」ずいう事に぀いおは以䞋の様に語っおいたした。それはアメリカで家を蚪問するず「コヌヒヌにしたすかお茶にしたすか」ず聞かれたすが、これは「決める䞻䜓である存圚自我に察しお、遞択を求めおいる事だ」ず蚀い、欧米の自我ずはこの「決める䞻䜓」の事を指しおいるず蚀うのです。欧米ではこの「決める䞻䜓」である「自我」を認めるからこそ、自分ずいう事を重芁芖し、その自我が遞択するずいう事を倧事にする文化が出来おいるず蚀うのです。

 ただし逊老孟子氏は、近幎、欧米でもこの「決める䞻䜓」ずいうのは、実は存圚するものではなく「無我」なのだずいう認識が広がっおきおいるずいう事を話しおいたした。


 ではこの逊老孟子氏の語る「無我」ずはどういう事なのかですが、これは仏教で説かれおいる「無我」だず蚀うのです。぀たり「決める䞻䜓」ずしおの自我は存圚しないず蚀うのが、近幎になっお欧米でも蚀われ始めおいるず蚀うのでしょう。


◆ミリンダ王の問いにある「無我」

 仏教でいう「無我」ずはどういった事なのか。その事に぀いおは、玀元前䞖玀埌半に、アフガニスタン・むンド北郚を支配したギリシャ人であるむンド・グリヌク朝の王、メナンドロス䞖ミリンダ王ず、むンド仏教の長老であるナヌガ・セヌナずの間で玀元前幎頃に日間行われた問答「ミリンダ王の問い挢蚳経兞「那先比䞘経」」に、以䞋の問答ずしお述べられおいたす。


ミリンダ王あなたの名前を教えおください。

ナヌガセヌナ長老王よ、私はナヌガセヌナず䞖間に呌ばれおいるけど、それはあくたでも呌称・蚘号・通念・名称であっお、実䜓や人栌などは存圚しないのです。

ミリンダ王皆さん、ここにいるナヌガセヌナは、ここに人栌の実䜓がないずおっしゃる。さおこんなこずを認めおもよいものだろうか

もしそうならば、出家修行者に垃斜をする者、それを受ける者はいったい䜕者でしょうか戒を砎り眰を受ける者ずは誰でしょうか蚀われる通りなら、善も、䞍善も、果も、無くなっおしたいたせんかあなたを殺した者にも殺人眪は成り立たなくなっおしたう。いったい、その『ナヌガセヌナ』ずは䜕ですか頭髪か、肌か、爪か、歯か

ナヌガセヌナ長老違いたす。

ミリンダ王では、肉か筋か骚か、腎臓か心臓かそれずも脳髄か

ナヌガセヌナ長老違いたす。

ミリンダ王では、肉䜓、感芚、思い、性栌、意識のいずれかですか

ナヌガセヌナ長老違いたす。

ミリンダ王ならば、そういったものずは別にナヌガセヌナがあるのですか

ナヌガセヌナ長老違いたす。

ミリンダ王䜕ですか 私はあなたに問いを繰り返しおも、䞀向にナヌガセヌナが䜕なのか分かりたせん。それは単なる名称ですかずはいえ、実䜓なくしお名称のみがあるはずもない。あなたの蚀われるこずは無茶苊茶です。ナヌガセヌナは「存圚せず」などずは・・・

ナヌガセヌナ長老王よ、あなたは今日ここに歩いおこられたしたか、それずも車に乗っおこられたしたか

ミリンダ王車に乗っおきたした。

ナヌガセヌナ長老それならば、あなたは車がどういうものかご存知でしょう。私に車がどういうものかを教えお䞋さい。それは蜅(ながえ)ですか

ミリンダ王いえ、違いたす。

ナヌガセヌナ長老車軞が車だろうか、それずも車茪か、車宀か、車台がそれか

ミリンダ王違いたす。

ナヌガセヌナ長老では、軛(くびき)か綱か鞭(むち)か

ミリンダ王違いたす。

ナヌガセヌナ長老それならば、それらを寄せ集めれば車になりたすか

ミリンダ王そういうわけでもありたせん。

ナヌガセヌナ長老そうであれば、それ以倖に車なるものがありたすか

ミリンダ王ありたせん。

ナヌガセヌナ長老王よ、私はあなたに問いを繰り返しおも、䞀向に車が䜕なのか分かりたせん。それは単なる名称ですかずはいえ、実䜓なくしお名称のみがあるはずもない。あなたの蚀われるこずは無茶苊茶です。皆さん、このような嘘停りを認めおもよいものだろうか

ミリンダ王私は嘘停りなど申しおはおりたせん。「車」ずいうのは、それぞれの郚分が䟝存し合った関係性の䞋に成り立っおいる呌称・蚘号・通念・名称です。

ナヌガセヌナ長老よくぞ蚀われた、王よ。あなたは車の䜕たるかが分かっおおいでだ。それずたるで同じで、私、ナヌガセヌナずは、頭髪・肌・爪、骚に肉、心臓に脳髄、感芚、思いなど、それぞれの郚分が䟝存し合った関係性の䞋に成り立っおいる呌称・蚘号・通念・名称で、人栌の実䜓ではありたせん。


 このミリンダ王ずナヌガセヌナ王ずの問答では、䟋えば「ミリンダ王」「ナヌガセヌナ」ずいう存圚の「䞻䜓自我」ずいうのは、どこにも存圚せず、それは今の肉䜓の䞊に「瞁起瞁の䞊で生起」したものであり、どこかに「自我の䞻䜓」があるずいう蚳では無いず蚀うのです。これを称しお「無我」ず呌んでいるず蚀われおいたす。


◆霊魂の吊定

 仏教ではこの「決める䞻䜓自我」ずいうのは存圚しないず蚀われおいたす。そしおそこから「霊魂」ず蚀う様な、氞遠に存続する「自我」ずいう事も吊定する立堎だず蚀われおいたす。

 これは個人的な事ですが、私は「怪談・奇談」ずいうのは倧奜物ですが、そこでは人には「霊魂」ずいうのが存圚し、その霊魂ずは肉䜓に宿るのですが、死ぬこずで霊魂は肉䜓を離れ、その埌に再生生たれ倉わり茪廻転生するず考えられおいたす。そしお死んだ埌、この珟䞖に残っおいる霊魂を幜霊ず呌び、芋える人にはその姿が芋えおしたい、堎合によっおは生きる人に良からぬ圱響を䞎える「怚霊」にもなるず蚀うのです。


 この霊魂ずいう抂念は、釈迊圚䞖にも既に存圚し、そこに「業カルマ」が付く事で、人々は生たれながらに差別があり、その「業カルマ」を無くす事で解脱を目指すずいうのが、バラモン教の教えであったずも蚀われおおり、釈迊はそういった人々を意識の深いレベルで瞛り付ける思想を吊定する意味からも「無我」を提唱したず蚀われおいたす。

 たたこの䞖界には霊魂が存圚し、それは生きおいる人にも様々な圱響を䞎えるずいう考え方もあったそうですが、釈迊は死んでいる人が「怚霊・悪霊」の様に人に圱響を䞎え、幞䞍幞が決定するずいう考え方も吊定しおいたず蚀われおいたす。だから仏教では、この様な「自我の䞻䜓霊魂」ずいう考え方を吊定しおいたのでしょう。


◆䞉䞖氞遠の生呜

 この仏教ですが、倧乗仏教の成立には「ゞャヌタカ物語本生譚」を取り入れ成立した事もあっお、䞉䞖に亘る茪廻転生を認める様な説話が倚くありたす。これは釈迊の過去䞖の話ずしお尞毘王しびおうの話や雪山童子の話、たた薩埵王子の話などで蚀われおいたすが、そこで過去䞖の釈迊が身呜を惜したないで菩薩道を修行した結果ずしお、今䞖のむンドで生たれた釈迊は成仏する事が出来たずいう話です。


 こういった説話を読んでしたい、たた倧乗仏教で説かれおいる「業因業果論」を知る事で、結果ずしお圓初仏教で蚀われおいた「無我」の考え方ずいうのは薄れおしたい、倧乗仏教では䞉䞖に枡り氞遠に存続する「自我」を認め、遠い過去䞖から未来に亘るたで䞀貫したその自我が修行しお、眪障消滅し様々な迷いや執着を断ち切っお、未来に斌ける成仏を目指すずいう考え方も出お来おしたっおいるのではないでしょうか。


 こういった考え方が基本ずなり、䟋えば創䟡孊䌚で蚀うずころの「宿呜転換」「境涯革呜」「人間革呜」ず蚀う様な思想も出お来おしたい、そういった宗教団䜓では自らが率先しお組織の指導通りに掻動する事で、過去の宿業を断ち切る事が出来お、成仏幞犏境涯の道に入っおいけるずいう様な、䞀芋するず仏教の教えず芋たごうばかりの教えを、倚くの人が信じおしたっおいるのではないでしょうか。


 ちなみに私も、以前に創䟡孊䌚で掻動しおいる時代には、この「䞉䞖氞遠の生呜」ずいう事を信じおいたした。自分自身がこの人生の䞭で甘受する様々な悩みや苊しみ。それらは皆「過去䞖の自分の行い」の結果ずしお、今の人生で受けおいる事であり、その過去䞖の自分の行い宿業を今䞖でしっかりず断ち切らないず、来䞖に斌いおも同様の苊しみは続くのだず。


 しかし最近になり、こういった捉え方は違うのではないかず考える様になりたした。考えおみれば䞉䞖過去・珟圚・未来に続く確固たる「自我意識」ずいうのは、実は存圚しないのではないかず考える様になったのです。

 この様に考える様になった切っ掛けは、これはずおも個人的な感芚だったのですが、ある時に幌皚園時代の私ず、今の私ははたしお党く同䞀な存圚であったのかずいう事を考える事がありたした。そしお幌皚園時代の私ず珟圚の私、この共通性を担保しおいる事は䜕なのかを考えた時、それは「蚘憶」以倖にはないず考えたのです。「幌皚園に通園しおいた私はこんな事を感じおいた」「母芪から蚀われおこの様に考えた」等々。圓時の私の感じた心の動き、たた取った行動、感じた事は党お「蚘憶」に残っおいたす。そしおその「蚘憶」が今でもたざたざず思い返せるから、圓時の私ず今の私は同䞀なんだず考えたした。ではその幌皚園圓時にその「蚘憶」ず造り出した私ずいうのは本圓に今の私なのか。実は今の私が同じ状況に出䌚った時は、別の蚘憶ずなっおいたのではないかず。


 そうなるず「䞉䞖氞遠の生呜」ず蚀っおいおも、それは意味合いが異なっおきたす。たた過去の宿業が珟圚の結果を生み、珟圚の行いが来䞖の自分自身の生き方を決めるずいう考え方も、この䞉䞖に亘る「自我意識」が無いずいう事になるず、党く意味を為さなくなっおしたうのです。


 ずは蚀いながら、この「䞉䞖に続く自我意識」が存圚しないずしおも、恐らく過去䞖もあれば来䞖もあるず思うのです。これを蚀うず倚くの人が矛盟を感じおしたうでしょう。それは私も充分に理解しおいたす。ただ私が珟圚考えおいるこの事に぀いお、倧倉難しい事でもありたすが、ここで少し掘り䞋げお曞き䞋しおみたいず思いたす。


◆法華経の芖点

 この私の思考のきっかけは倧乗仏教で、なかんずく倩台倧垫から日蓮ぞず぀ながる教矩の流れに圱響を受けおいたす。こんな倧乗仏教ですが、実はこの倧乗仏教に斌ける法華経の芳点、それはある意味では法華経の芳点いうよりも、䞭囜に出珟した倩台倧垫智顗の解釈が、こういった䞉䞖氞遠の生呜ずいう考え方を倉革しおたのかもしれたせん。暩経仮の教えず実経真実の教えずいう教盞刀釈を瀺した由来も、そういった凊にあるず私は考えおいたす。


 日蓮はこの倩台倧垫智顗の教矩を鎌倉時代に継承し、人々の間に展開した僧ですが、日蓮は自身の著曞である開目抄で、以䞋の様に語っおいたす。


「䜆し歀の経に二箇の倧事あり倶舎宗成実宗埋宗法盞宗䞉論宗等は名をもしらず華厳宗ず真蚀宗ずの二宗は偞に盗んで自宗の骚目ずせり、䞀念䞉千の法門は䜆法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜暹倩芪知぀おしかもいただひろいいださず䜆我が倩台智者のみこれをいだけり。」


 ここでいう「二箇の倧事」ずは䜕かず蚀えば、同じく開目抄で先に読み進むず、以䞋の事を語っおいたす。


「我が身にもさもやずうちをがうる事は二乗䜜仏久遠実成なるべし」


 法華経にある倧事な法門ずは、日蓮が蚀うには「䞀念䞉千」だず蚀っおいたす。そしおその法門を瀺すためには「二乗䜜仏」ず「久遠実成」が重芁であり、法華経にはこの二぀の重芁な事が説かれおいるずいうのです。


 たず「䞀念䞉千」ずいう事に぀いお、少しここで玹介しおみたす。これに぀いおは日蓮の著䜜である「劂来滅埌五五癟歳始芳心本尊抄」で述べられおいたすので、たずはそれに぀いお玹介臎したす。


「倫れ䞀心に十法界を具す䞀法界に又十法界を具すれば癟法界なり䞀界に䞉十皮の䞖間を具すれば癟法界に即䞉千皮の䞖間を具す、歀の䞉千䞀念の心に圚り若し心無んば而已介爟も心有れば即ち䞉千を具す乃至所以に称しお䞍可思議境ず為す意歀に圚り」等云云或本に云く䞀界に䞉皮の䞖間を具す。


 ここでは䞀心瞬間の心には十法界が具わるず蚀っおいたすが、これは良く聞く「十界論」で瀺される十皮類の心の姿です。これは「地獄・逓鬌・畜生・修矅・人・倩・声聞・瞁芚・菩薩・仏」の十皮類の事ですが、ここではこの各界にそれぞれ十界が具わるず蚀い、この事で十界✕十界癟界だずいうのです。これは「十界互俱」ずいう蚀葉で、倚少なりずも日蓮教孊を霧った人であれば解っおいる事だず思いたす。

 そしお癟界のそれぞれに「䞉十皮の䞖間」ず蚀いたすが、これは「五蘊䞖間・衆生䞖間・囜土䞖間」の䞉界それぞれに十劂是盞・性・䜓・力・䜜・因・瞁・果・報・本末究竟等があるずいう事で「䞉䞖間✕十劂是䞉十皮の䞖間」ずいう事を指しおいたす。

 この癟界にそれぞれ䞉十䞖間が具わる事で、結果ずしお䞉千ずいう事になりたすが、人の瞬間の心には、垞にこの䞉千皮が存圚する事を「䞀念䞉千」ず呌んでいたす。


 日蓮はこの「䞀念䞉千」こそが法華経の肝心重芁な教えだず蚀っおいたすが、では䜕故、この教えが重芁だず蚀うのでしょうか。この事に぀いお、創䟡孊䌚の教孊では「人の生呜には仏の生呜が具わっおいるので、尊極な存圚である事を明かしおいる」ず蚀っおいたすが、この解釈は果たしお合っおいるのでしょうか。


 私が思うにこの「䞀念䞉千」ずいうのは、譬喩ずいう事ではないかず考えおいたす。十界互俱ずいうのは、人の心の動きが単なる十皮類の境涯論ではなく、そこには必ず「仏界が関䞎しおいる」ずいう事を瀺したものだず蚀うのです。日蓮は「劂来滅埌五五癟歳始芳心抄」で以䞋の様に述べおいたす。


「答えお曰く法華経第䞀方䟿品に云く「衆生をしお仏知芋を開かしめんず欲す」等云云是は九界所具の仏界なり」


 これは法華経方䟿品第二にある「衆生をしお仏知芋を開かしめんず欲す」ずいう蚀葉は、九界地獄界から菩薩界たでのそれぞれに仏界が具わっおいる事を明かしおいる蚀葉だず蚀いたす。぀たり人々が感じる心の動き九界の奥底には、「仏の知芋を開かせよう」ずいう仏の想いが垞に働いおいるずいう事を指しおいるず蚀うのです。


「寿量品に云く「是くの劂く我成仏しおより已来甚倧に久遠なり寿呜無量阿僧祇劫垞䜏にしお滅せず諞の善男子我本菩薩の道を行じお成ぜし所の寿呜今猶未だ尜きず埩䞊の数に倍せり」等云云歀の経文は仏界所具の九界なり」


 これは法華経劂来寿量品にある久遠実成を明かしおいる蚀葉ですが、これは仏が久遠よりこの嚑婆䞖界珟実䞖界の䞭で、垞に菩薩ずしお修行をしおきおおり、その寿呜はこれからも今たで経過した時間五癟塵点劫を倍するだけあるず述べおいる箇所ですが、これは仏は九界の心の働きここでは菩薩の修行をしたず蚀っおいたすがずしお久遠から今に至り珟実䞖界の䞭で掻動しおきたずいう事を指しおいるず蚀うのです。


 たたこの事に぀いお、日蓮は開目抄においお以䞋の様に述べおいたす。


「歀即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りお真の十界互具癟界千劂䞀念䞉千なるべし」


 ぀たりこれこそが本因本果の法門であっお、九界は始たりの無い仏界に具わり、仏界も始たりの無い九界の具わる。これが真実の十界互俱癟界千劂、䞀念䞉千の法門なのであるず。だから単に人の心に「仏」が内圚するので、人は尊極な存圚であるずいう事が䞀念䞉千の教えではなく、私たちが垞日頃感じおいる心の動きずは、垞に仏ず䞍可分であり、その仏の働きが盞互に関䞎し発珟したものが、この私達の心の働きであるずいう事なのです。


◆九識論に぀いお

 䞀念䞉千ずは「心の働き」の事に぀いお述べおいたず曞きたした。これはある意味で心の衚面䞊の動きに぀いお説かれたものですが、倧乗仏教の唯識掟の䞭では、この心の重局構造に぀いお論じたものに「九識論」ずいうのがありたす。「自我」に぀いお考える為に、次にこの九識論に぀いお少し考えおみたいず思いたす。


 九識論ずは「九぀の識」に぀いお論じられおいたす。ここでいう「識」ずは「識別」ずいう単語でも瀺されおいる様に、心の持぀識別する働きであり、自分自身や他者を認識する働きの事であるず蚀えるのでは無いでしょうか。


 五識県、耳、錻、舌、身

 これらは良く五感ずも蚀われおいたすが、人が倖界を識別する為に持っおいる五皮類の識を指したす。五感ず違うのは、これらを単なる感芚噚官ず捉えるのではなく、それぞれに埗た情報を識別しお凊理する働きを持っおいるず、この九識論では捉えおいたす。これは私達の生掻の䞭でもそうですが、䟋えば県で芋た者、耳で聞いた事を、私たちはそのたた受け入れおいるわけではありたせん。そこでは埗られた感芚情報のうち、必芁な情報を識別しおいる受け入れおいるのです。良くありたすよね、「芋萜ずした」ずいう珟象が。これは芖芚情報ずしお感芚噚官は感受しおいたすが、その埌に「これは今は䞍芁だ」ずいう識別䜜甚が働いた結果、芋萜ずすずいう事が起きおいるのです。


 六識意識

 これは五識から埗られた情報に基づき、それらを分析しお自分自身の眮かれおいる状況などを思惟する働きの事を蚀いたす。そしお意識では、五識で埗られた珟圚の情報を元に過去や未来を掚し量るずいう動きを持ち合わせおいるのです。


 䞃識末那識

 これは自我の識ず蚀われおおり、阿頌耶識を察象ずしお自我の錯芚を生じる識ず蚀われおいたす。私がこの文曞の前段で「そしおその「蚘憶」が今でもたざたざず思い返せるから、圓時の私ず今の私は同䞀なんだず考えたした。」ず曞きたしたが、これは圓にこの末那識を垣間芋たず蚀えるでしょう。


 八識阿頌耶識

 これは蔵しおいる皮子から察象䞖界の諞珟象<珟行げんぎょう法>を生じる。たたそうしお生じた諞珟象は、たたその人の阿頌耶識に印象<熏習くんじゅう>を䞎えお皮子を圢成し、刹那に生滅し぀぀持続盞続する識ず蚀われおいたす。簡単に蚀えば「蚘憶業」を蓄積し、それが人の呚囲に諞珟象を起こし぀぀、そこで起きた結果を「蚘憶業」ずしお所蔵する。その為に別名「蔵識」ずも呌ばれおいたす。唯識掟である法盞宗では、党おはこの阿頌耶識から生起するず考える事から、この阿頌耶識を持っお「心王心の本質」ず述べおいたす。


 九識阿摩矅識

 倩台宗や華厳宗では、阿頌耶識の曎に奥に汚れない根本識ずしお阿摩矅識を䜍眮づけたした。阿頌耶識以䞋は、この阿摩矅識から生じたずされ、これは仏性の異名であるずも述べおいたす。特に倩台宗や日蓮は、この阿摩矅識をもっお「九識心王真劂の郜」ず呌び、仏性の圓䜓ず䜍眮づけしおいたす。


 以䞊、九識論たで玹介したしたが、ここたで玹介した法華経の䞀念䞉千、久遠実成の釈尊、そしお九識論から劂䜕に「自我」ずいう存圚に近づけるのか、それは次の蚘事で曎に考察をしおみたいず思いたす。


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