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部派仏教

 釈迦が入滅した後、釈迦の弟子たちは摩訶迦葉を中心にして、釈迦の残した教説をまとめる為に「経典結集」を行いました。この経典結集は、仏教史の中では6回行われたと言われていますが、今回は「第一回経典結集」と、その後に起きた部派仏教について少しまとめてみたいと思います。


 伝承によれば、第一回の経典結集は、釈迦の入滅後にラジャーグリハ(王舎城)郊外に、阿羅漢果を得た500人の比丘が集まり行われたと言います。ここでの経典結集は、アーナンダ(阿難)が法を、ウパーリ(優波離)が律の編集責任者となり行われ、その外護はマカダ国のアジャーシャトル(阿闍世王)がしたと言います。

 この経典結集では、釈迦の教説が一つひとつまとめられていくのですが、釈迦の教えとは「対機説法」です。これは常に目の前に悩み苦しむ人がいて、その人を救うために、その人の状況に合わせて常に教えが説かれました。そういった対機説法の教えを、経典結集では普遍的な教えに変えて経典としてまとめていかれました。つまりある人に対して説かれた教えのエッセンスを抽出して経典化したのが経典結集であると言ってもよく、各経典の冒頭には必ず「如是我聞(私はこの様に聞いた)」という枕言葉をつけているのもこの事によっているのです。

 つまり第一回経典結集では、法についてはアーナンダ(阿難)が釈迦に付き従って行く中で、釈迦の説いた教えを聞き続けたアーナンダが理解した内容を語り、律についてはウパーリ(優波離)が同じく理解したものを語り、それぞれが「経典」「戒律」としてまとめられていったのです。


 仏教とは「内省的」な教えであり、一人ひとりがどの様に理解したのかを重要視するものだと私は思います。その事もあって釈迦滅後、経典結集が為された後、百年から数百年の間に釈迦の仏教教団は、この経典の解釈により諸派の仏教として分派していきました。しかし経典結集というのは釈迦の教えを後世に過たずに伝承するという事で行われたのですが、その経典の解釈を巡り、後世の仏教徒が分派したといのも、ある意味で皮肉な事だと思います。


◆根本分裂

 紀元前3世紀頃には、仏教教団は上座部と大衆部に分裂します。これを「根本分裂」と言います。根本分裂とは第二回経典結集の後に教団が分裂した出来事を言いますが、これは仏滅後100年頃に起きました。

 分裂の原因については北伝(主にカシミールから中国に伝播したもの)と南伝(インドからセイロン、そして東南アジアに伝播したもの)によって大きな相違があり、今の時代となってはどちらが正しい原因なのかという事は明確となっていませんが、北伝・南伝いずれも「上座部」に属するグループが原因を伝えていました。

 北伝仏教においては「異部宗輪論」にその原因について書かれていますが、それによれば大天(後の大衆部の祖となった人物)の唱えた阿羅漢を低くみなす五事の問題が原因であったと言われています。これは夢精をした修行者が居た事に端を発したもので、以下の内容となります。


 ①天魔に誘われた時は阿羅漢も不浄の漏失を免れない

 ②阿羅漢には不染汚無知というものがある

 ➂阿羅漢にも世間的な疑惑はある

 ④阿羅漢にも聖慧眼を持たぬ者がいる

 ⑤真実、苦しいと叫ぶことから聖道が生じる


 要は阿羅漢を得て悟りを得た人であっても、世俗の問題や穢れから離れる訳ではないし、不浄、無知であると言う事を述べ、むしろその様な自らの煩悩を認めた処から悟りへの道が始まるという事を主張した事により仏教教団は分裂を起したというのです。つまり阿羅漢果を得たという人に対する痛烈な批判と言っても良いでしょう。


 一方の南伝仏教においては「島史(ディーパワンサ)」、「大史(マハーワンサ)」によれば、バイシャリーのヴァッジ族の比丘が唱えた十事の問題が分裂の原因であると述べています。これはヴァッジ族の比丘たちが、在家信徒から金銀の布施を受けましたが、それを耶舎(ヤサ・カーカンダカ・プッタ)という比丘が見て、それを批難したとこと、逆にバイシャリーの比丘から排斥された事に端を発したもので、ここで言う十事は以下の内容となります。


 ①塩浄:前日まで受けた塩を、後日の為に備蓄しても良い

 ②二指浄:日時計の影田がふた指の範囲内であれば食事を取っても良い

 ➂聚落間浄:一つの村で食事した後、別の村で食事をしても良い

 ④住処浄:一定の場所で懺悔や反省、食事しなくても別の場所で行ってもよい

 ⑤随意浄:比丘の人数が揃っていなくても事後承認で議決してもよい

 ⑥久住浄:サンガの行事・戒律を為すときに前人の先例に随ってやればよい

 ⑦生和合浄:食事の後に乳酪をとってもよい

 ⑧水浄:醗酵していない(すなわち酒になっていない)椰子の汁を飲んでもよい

 ⑨不益纓尼師檀浄: 縁(ふち・へり)をつけずに、好きな大きさで座具を用いてよい

 ⑩金銀浄:金銀や金銭の供養を受けてそれを受蓄してもよい


 この十事はいずれも律(戒律)ですが、ヴァッジ族の比丘は地域の実情によりこの戒律を緩めて解釈していたという立場を取っており、この解釈の違いから仏教教団は分裂したと言われています。


 この仏教教団の根本分裂について、仏教学者の中村元氏は、分裂の問題としては南伝仏教の十事問題説が正しく、北伝仏教の五事説については、後に大衆部から分裂した制多山部の祖である同名の「大天」の言行が拡大投影されたものではないかと述べています。また十事によって、すぐに分裂が起こったのではなく、しだいに上座部と大衆部が対立するようになり分裂したとも述べているのです。


 何れにしても明確な事実は判明していませんが、釈迦滅後の弟子達は釈迦の教説を後世に過たずに伝承しようとしたのですが、100年ほど経過する中で、この伝承された教えの解釈を巡り、仏教教団が上座部(長老部)と大衆部(現実を容認する多人数)に分裂をしたという事実には変わりないのです。

 またこの根本分裂は北伝、南伝ともに長老部の主張によるという事から考えると、教団指導部としては厳格に伝承をしようとしていたのですが、多くの仏教教団の僧侶たちの統制を取る事が出来なかった事を「根本分裂」として呼び示したのかもしれません。


◆部派仏教

 釈迦滅後100年頃に「根本分裂」を起し、上座部と大衆部に分裂した仏教教団ですが、さらにこの2部派は分裂し、各部派は釈迦が残した教法を研究・整理して、独自の教義をアビダルマ(論)としてまとめ、互いに論争を始めました。分派の系統については、北伝仏教の伝承では上座部系統11部派、大衆部派9部派と言われています。代表的な部派については以下に示します。

 ・西北インドの説一切有部

 ・中西インドの正量部

 ・西南インドの上座部

 ・中南方インドの大衆部

 この部派仏教は北伝によれば20派、南伝によれば18派と言われていますが、大乗仏教成立後には、いずれも小乗仏教とまとめて呼称されました。しかし大衆部や法蔵部、経量部の教義については、大乗仏教の教義と一致するものが多く、これら教義は大乗仏教の成立に影響を与えた事が考えられると言われています。



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