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21/10/28 読売・衆院選終盤情勢


 今週の土日が衆議院選挙の投票日です。近年では「期日前投票」という事が、かなり浸透しているので、既に投票を済ませた人も居ると思います。


 さて、今回の焦点はやはり「政権交代」になると思いますが、私の周囲を見ていると、あまり衆議院選挙に対する熱量を感じる事が出来ません。ツィッター等のSNSでは様々な話題が出ていて、一部盛り上がっていたりしている様ですが、仕事関係で雑談をしていても、それほど選挙の事は話題に上らないのです。まあ仕事場で政治の話は、何気に御法度でもあるのですが、果たして国民は今回の選挙で、どの様な判断を示すのでしょうか。


 (読売新聞 10/28(木))


 この読売新聞の記事では、10/26から10/28に世論調査を行い、そこでは今回の衆議院選挙で自民党の単独過半数維持が微妙な情勢であったと言っています。

 読売新聞の分析によれば、自民党は単独過半数維持は厳しい状況だが、公明党は安定的に議席獲得できるので、自公連立政権としては「安定多数(244議席)」の獲得となるとしています。

 立憲民主党は情勢としては極めて流動的ではある様ですが、比例区でも40議席を獲得できる見込みであるとし、共産党も公示前の11議席から20議席台に迫る勢いだとありました。その他、国民民主党は現有議席を維持するとありますが、今回は野党で政権交代には及ばないというのがこの読売新聞の分析結果の様です。


 まあ何となくですが、この読売新聞の分析が現状を一番的確に表しているのではないでしょうか。


 私は今回の衆議院選挙で政権交代を期待していますが、恐らくそうはならないと踏んでいます。それ以上に私が今回注目している事は「投票率」がどれほど上がるのか、という事です。


 日本は立憲民主主義を掲げていますが、やはり民主主義の命脈の大事なポイントは「投票率」であると私は考えています。

 左のグラフは読売オンラインから参照していますが、今世紀の初頭に投票率は60%を超えていた時期もありますが、2014年には52.66%、前回の2017年では少し盛り返したとはいえ53.68%となっています。

 これは有権者の半分ほどしか投票しておらず、残り半分は投票を棄権しているという事です。

 投票率がこれだけ低いという事は、国民の中にある政治に対する不信感やシラケがそれだけ根深くなっている事を表しており、これは当に民主主義制度の危機を表しているといっても良いのではないでしょうか。


 例えば投票率50%として、そこで単独過半数を取るとして50%。ざっくりと計算すると25%の票を獲得した政党が「民意を得られた」として、今後の政治の舵を取るのですが、これでは有権者の25%の支持が「民意」として採択されている事になるのです。実際には善投票数の半数の票を取らずとも、恐らく20%前後取れれば、場合によって議席の半数を獲得出来てしまうのです。どうなるとやはり既得権益を持った組織団体が集票活動を行えば「民意」を得られる事になってしまいます。


 民主主義の歴史とは以外に古く、遠くは古代ギリシャから始まりましたが、近代の政治思想上で明確に民主主義を要求したというのは、1642年から1649年にかけてイギリスで起こった「清教徒革命」であると言われています。更にその後1789年の「フランス革命」では君主制・貴族性・神聖政治に対抗する事で使われ、20世紀に入ってからは全体主義に対抗する事で使用されたりもしました。


 日本の民主主義への動きとしては、明治23年に始めた行われた衆議院選挙からと言われ、その前年には大日本国憲法が発布された時でした。ただ当時は一部の人にしか投票は許されておらず、大正14年(1925年)になり25歳以上の成人男子、昭和20年(1945年)では満20歳以上の男女全てが選挙権を得て投票できるようになりました。


 欧米では民主主義を獲得する為に、多くの人達が死に物狂いの運動を起して獲得したのですが、日本という国には、そういった歴史はありません。考えてみれば近代国家として日本という国が出来たのは明治維新と言われていますが、この明治維新というのは、幕末に外様大名の雄藩である、長州藩と薩摩藩の下級士族が中心となり起こしたクーデターによる政権交代であって、いわば士族(武士階級)の間で起きた政変劇でした。それ以降も日本に於いて、いわゆる民衆が主体的に起こした政変劇というのはなく、太平洋戦争後に欧米型の民主主義体制を取り入れられたのも、アメリカを中心とした連合国によってであり、日本人の多くが主体的に動いて獲得したというものではなかったのです。


 私は日本人社会の中にある、ある意味で「政治へのシラケ」という政治への距離感の根っこには、こういった日本人社会の過去の歴史が要因の一つにあると思えてならないのです。あくまでも政治とは人々が関与できない「お上」の中の争いであり、私たちはそこで決まった「お上」の指示の元で生活をする。そういった感覚が日本人の中に根強くあると思いますが、如何でしょうか。


 民主主義制度の根幹にあるのはやはり選挙制度だと思います。民主主義には直接民主主義と間接民主主義があります。古代ローマや現代ではスイス、またアメリカのタウンミーティング(日本でいう自治会に近いもの)では直接民主主義制度を取っていますが、今の日本は政党を中心とした間接民主主義制度を取っています。(別名、政党政治とも呼ばれています)


 この制度では自分の政治的な代理人を選挙により選出するのですが、ここに政党という事も絡んできますので、中々自分自身の政治的な代理人を見つけ出すという事が難しいものです。


「私は誰を選んだらよいか、わからない」

「誰を選んだにしても、どうせ変わらない」


 こういった人達の声の背景には、そういう事もあると思います。


 しかし一方で、今の日本の行っている政治について、国民が判断して態度を表明する機会というのは、選挙という事でしか意見の表明の場がないのが現実です。「民意」という言葉を言いますが、やはり今の政治への態度を表明する事は、国家にとってとても重要な事なのです。


 では一体、どこの政党の誰に投票したら良いのか?


 そこは国民一人ひとりが考える事を求められているので、しっかりと考えて検討した上で投票する必要があるのです。民主主義とは、そういう意味ではとても「面倒臭く」「厄介」な制度なのですが、少なくとも過去の様々な人達が考え抜いて出来た制度であるので「投票棄権」という事だけは、できるだけ避けるべきなのです。


 過去の歴史を振り返ってみると、専制君主・独裁者を生み出す苗床として、また衆愚政治の苗床にこの「民主主義」という制度がなった時代もありました。しかしそこには国民の選挙権への軽視、放棄というのがあった事も忘れてはならないのです。


 国民がしっかりと今の政治を考えて、自分自身の政治判断というのを考え、表明する行為を諦めた時、おそらく民主主義という制度はその国民に対して刃(やいば)を向けてくる危険性もあるのではないでしょうか。


 今の日本の政治が抱える問題は多岐に渡ります。そしてそれぞれの課題の根は深く、けして一度や二度の変化で変えられるものは、一つもありません。


 ただ今の日本、この閉塞感漂う社会を変化させる根源の力は、やはり国民一人ひとりの政治に対する意識変革であると私は思います。その事から、今週末の衆議院選挙には、しっかりと行って頂きたいと願うばかりです。


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