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人類社会と宗教について



◆はじめに

 私は二十歳の頃から四十代に至るまでの間、創価学会という宗教団体に所属をしていました。創価学会では「広宣流布」という理想を掲げ、それにより社会の平和と繁栄を創りえると主張していて、私はその理想を信じて若い時代の四半世紀近くの間、創価学会の組織活動に「全身全霊」をもって取り組んできました。しかし四十代半ばの頃、組織の中で言う「広宣流布の現実」という事を認めろという圧力があり、その「現実」を受け入れられなかった私は、組織活動の一線から離れ、創価学会という組織から距離を置いたのです。

 私は宗教学者ではありません。あくまでも自分自身の人生の時間を費やしてきて、この宗教について経験をしてきたに過ぎません。しかしこの経験を基にして、少しこの場で宗教という事と、人類社会の中に於ける宗教という事について少し私見をまとめてみたいと思います。お時間のある方は、お付き合い頂ければ幸いです。


◆宗教とは

 私が経験したところ、宗教団体の所属をして宗教を信じている人の大半は、実は宗教というものがどういったものなのか、理論的な事を理解していない様に思います。宗教とはどの様な宗教であっても、その基本には「信じる事」だけを求めており、信徒に対して理性的な宗教に対する理解をした上で「信じる」はあまり求めていないと思います。また宗教を始める人の多くは、人生の中で何かしらの悩みや苦悩、また問題を抱えているケースも多くあり、理性的な事よりも、まずはそういった目の前の諸問題を宗教によって解決する事を期待して始める人が多く、その為に理性的に宗教を理解する事を後付けにしている様に思いました。  本来であればやはり教育の現場で、まず宗教という事をしっかりと学ばせるという事が重要かと思うのですが、今の日本社会において、その様な認識には至っていない様です。


 まず宗教の定義ですが、WIKIPEDIAによると以下の様になっています。



 これによると宗教とは「一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」という定義があります。


 まず信仰ですが、これは文字で言えば「信じ仰ぐ」という事です。人とは生活する上で必ず何かを信じていると言いますが、信仰とは自身の理解を越えたもの、また自然に内在している、人間の常識範疇では捉えきれない力を信じ仰ぐ事を信仰と呼んでも良いでしょう。

 これが宗教になると、その理解を越えたもの、人智を越えた力に思想体系や観念体系を組織として構築し、それに対する信仰体系や教義、行事などを執り行う組織を持った社会集団となります。

 つまり要約して言えば、一人の個人が自分の理解できる範疇外の力や、そういう存在を信じ仰ぐ事は「信仰」と呼びますが、その「信仰」の教義体系を構築し、その教義体系を元にして信仰する社会集団を宗教と定義するものとして考えてよいと思います。


◆宗教の始まり

 宗教の始まりについて、ドイツの社会学者のマックス・ウェバーによれば「人間がどこから来て、どこへ行くのか」という疑問にあったと言います。約五万年前のネアンデールタール人の遺跡には、既に死者を葬った痕跡があったと言いますが、要は人間が「死」という事を考える事から始まり、そこへの畏怖や恐怖から宗教の原型が始まったと言うのです。ただし近年ではネアンデールタール人は私達ホモ・サピエンスの直接的な先祖では無いと言われています。しかしある一定の智慧を持ちえた生き物が、死という事を認識し、そこへの思惟を進める中で、自分自身が「どこから来て、そこへ行くのか」という、その根源的な存在意義を考える様に知的進化をする過程において、宗教というのは発生したと考えるべきなのかもしれません。そして死を切っ掛けとしての思惟から、自分自身の存在意義を求めるなかで、宗教は呪術的性格を帯びて発展をしていったと言われています。またこの呪術的性格を帯びた原始的な宗教は、人類が単なる群れから部族へ、部族から民族へ、そして民族から国家と人類社会が発展する中で、社会的単位の呪術へと変化をしていったと言われています。宗教が「信仰する社会集団」と定義されるのも、こういう性質によるのかもしれません。

 始まりが呪術的なものでしたが、この宗教というのは社会の変化に伴い変化をする中で、「私達(人間)とは何か」という事から「宇宙とは何か」が問われるようになり、そこで世界の諸現象の奥底にある形而学的な世界にまで思考が及び、教義というものが体系化され、世界宗教というのが誕生したと言われています。(R.N.ベラー「有史宗教」による)


◆宗教の分類

 いまの人類社会の中には様々な宗教が存在します。これは例えば南太平洋の孤島に住む未開の部族の信じる呪術的なシャーマニズム宗教から、世界三大宗教と呼ばれるキリスト教、イスラム教、そして仏教。またこの三大宗教の中も様々な分派があり、その数は正確には数えきれないほど存在しています。日本の中においても、様々な宗教団体が存在し、各団体の公称信徒数を合計すると、日本人の総人口の二倍になると言われている様に、信じる形態もマチマチの様です。

 この数多ある宗教ですが、分類する方法が幾つかあると言われています。一つは信仰する対象が「単神教(唯一絶対神を立てている)」であるのか、「多神教(多くの神々を立てている)」であるのか。という事です。キリスト教を始めとして、ユダヤ教やイスラム教等は唯一絶対神を立てているので単神教になりますし、仏教やヒンズー教や道教、また日本の神道などでは多くの神々を立てていますので多神教に分類されます。

 これは私の私見ですが、多神教で語られる神々というのは、往々にして人々に影響を為す様々な自然現象を、それぞれ神として尊崇する事から始まっている様に思えます。そしてそこには精霊信仰(アミニズム)があり、この神々への信仰は呪術的な要素から発生した思想ではないでしょうか。一方の単神教の神というのは、人間やこの世界を一つの絶対的な存在が作りだしたという考え方から発生している様に思えます。つまりこちらについては、人類の中で宗教の始まりであったと言われている、呪術的な要素とは関係なしに発生した考え方が淵源になっているのかもしれません。(この事については別枠で考察します。)


 また宗教の分類については、この信仰の対象による分類の他、そこへの形而学的な分類もあると思います。それは「自己の外への信仰」というものと、「自己の内面への信仰」という二つです。

 例えばキリスト教は単神教ですが、その神の捉え方としては二つのものが存在するようです。それは「神は自分自身の内面にある」という考え方と、「神は自分自身の外にある」とする捉え方です。これは仏教についても同様なものとなっています。

 私は多少、創価学会という宗教団体の中で仏教を学んできましたが、仏教で説く仏とは突き詰めると自身の内面にある存在を指すものであったはずが、実は自分とは違う場所に存在する高貴なもので、私たちはそれに御すがりして救済されると言う考え方も存在しています。日本各地の寺院にある仏教の信仰の大半は、この考え方になっています。

 この事について西暦500年頃、中国にいた仏教僧の天台大師智顗は「内道」と「外道」という事で分類をしていました。内道とは全ての事象は自身の心の内面から起きていると捉え、外道とはその事象は全て自身の心以外から起きていると捉える事だとしています。そして天台大師は仏教とは本来「内道」なのですが、気を付けなければ仏教を信じている姿をしていたとしても「外道」となってしまうとも述べています。つまるところ、その宗教を信じる一人ひとりの捉え方によって、信じる宗教の性質が異なってしまうという事を述べているのです。

 また近年において、ルドルフ・シュタイナーは「物質と精神の戦い」という講話の中で「霊性」という事に触れ、物質的な事に囚われるのではなく、霊性に目を向けるべきであるという話をしていましたが、これは先の仏教僧の天台大師の言葉にも、一部通じる内容であると思われます。


◆宗教の優劣

 ここまで駆け足で宗教の概要についてまとめてきましたが、人類社会の中にある宗教間では、その優劣というのは何時の時代に於いても論じられ、それを元にして様々な争いの火だねとして利用されて来ました。


 例えばキリスト教とイスラム教では、信仰する神は同じです。しかしその神の下に出現する預言者をキリストと立てるのか、ムハンマドと立てるのかの違いがあります。そしてこの認識の違いが利用され、キリスト教徒とイスラム教徒は長年に渡り争い、憎しみあう事になってしまっていると思われるのです。そしてそれが現在に於いても中東問題として人類の中では解決できない問題として存在しています。恐らく人類史の中に過去から多くの争いの中には、一見して民族間の対立に見える出来事も、その根底には常に宗教対立というの姿が見えるのも、こういう構造によるものと思われます。


 私が創価学会の中にいた時も、鎌倉時代の僧である日蓮の言った「五重の相対(教相判釈)」により、創価学会の信じている教えこそが唯一正しい教えとしており、それ以外の教えを「邪教(今では他宗と呼んでいますが)」と呼んで排斥していました。そしてこの排斥する考え方が、少なからずの家族間の宗教対立を呼び、悲劇を巻き起こしてもいたのです。


 ここで考えなければならない事は、果たして宗教に「優劣」は存在するのかという事です。先の宗教の分類でも書きましたが、宗教の基本とは一人ひとりの信仰にあります。確かに宗教とは社会集団という側面がありますが、その基本とは飽くまでも一人ひとりがどの様に信仰として向き合うのかという事です。また同じ教えの宗教とは言っても、その教義への向き合い方一つで、実は別の教えと呼んでも良いほどの違いが発生していまうのです。そうであれば宗教をするという事で、重要となる事は、社会集団としての考え方ではなく、それを信じる個々の人達の心の内面の問題に帰する事であり、そこに優劣を考える事自体、あまり意味のある事では無いと私は考えているのです。

 しかし一方で宗教とは「信仰」を元にしています。信仰とは「信じ仰ぐ」という事ですが、人はこの「信じる」という事を抑えられると、実は心の内面と向き合う事が出来なくなってしまう傾向性を持つ生物です。これにより人は想像も出来ない残酷な行為を行ってしまいます。また宗教とは社会集団という側面もあり、社会集団には大なり小なりの「ヒエラルキー」が存在してしまいます。具体的に言えば、ヒエラルキーの上位にある宗教の指導者層の思惑によって、その宗教を信じる人々は容易に扇動されてしまう事があるのです。


 この事から宗教の優劣という事を利用して、長年に渡り人類は一部の宗教指導者によって操られてきたという歴史を持っているという事を、私たちは認識しなければならないのではないでしょうか。


◆宗教と社会について

 さて、ここまで宗教の事に関して述べてきました。ただ日本の社会ではこの宗教と社会の関わりについて、あまり強く意識している人達は少ない様に思います。もともと日本人の精神構造の底には「八百万の神」というものがあります。これは全てのモノに霊性が備わり、一つだけではなく広く尊び尊重するという思考です。この淵源は日本人のアミニズム(精霊信仰)というのが大きく関係しているのでしょうが、それ故に宗教に対して無頓着であり、且つ社会の中での宗教の存在を、多くの人が許容しています。またこの様な宗教が自分達の社会に影響を与えているという事もあまり意識している人は居ないでしょう。

 しかしここで考えなくてはならない事は、現在(2021年)の日本の政治は自公連立政権で、この政権与党を支えている自民党と公明党を支えているのは、創価学会という宗教団体であるという現実です。

 創価学会とは公称800万世帯と言われていますが、一時期ほどの勢いは無くなっては居るものの、現在でも200万人前後が創価学会の活動家として活動をしています。彼ら活動家は自分達の宗教活動の延長線上に選挙があります。だから選挙の度に投票活動を進め、それこそ日本社会を自分達の理想の状態に持っていけると信じているのです。そしてこの創価学会の活動家に、選挙の投票先の指示をするのは、創価学会のごく一部の宗教指導者層なのです。つまり今の日本社会の動向を握っているのは、この創価学会の一部の宗教指導者層を掌握している人達なのです。

 つまり私達日本社会の人々が意識している、いないに関わらず、その様な宗教を掌握した、一部の人達の思惑によって日本の政治が動かされているという現実を理解しなければならないのです。


 アメリカにおいては、大統領に就任する人の多くは「WASP(White Anglo-Saxon Protestant(アングロ・サクソン系プロテスタントの白人))」と言われています。これはキリスト教のカトリック信者を国家の指導者から排斥するという考えがあり、それはローマ教皇(カトリック信者の総本山)の影響を排除する意味があると言うのです。そもそもアメリカという国の設立にはカトリックに対する反発があった事からこの様な事があるそうです。


 宗教とは人類にとって必要なものかもしれません。しかしそうであればこそ、この宗教の問題点についても、やはり社会の中でより認識を深める必要があるのではないでしょうか。



 

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