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幕末期から考えてみる(ペリー来航)

更新日:2021年10月22日


 日本の歴史について、私自身を振り返ってみた場合、何時の頃から「日本の歴史」というのを自分が理解していたのでしょうか。  歴史を学ぶのは学生時代に学んだ事が基礎になっていると思いますが、学生時代の歴史の学習というのは、過去に日本が経験してきた事というよりも、時代の区切りやそこで起きた事件の年号と、そこで活躍した人物の名前の暗記というものでしか無いように思えます。せいぜい理解しているのは、奈良時代から平安時代、鎌倉時代に室町時代、安土桃山時代から戦国、そして江戸時代を経て近代へ。そんな感じの時系列の並びでしか無いように考えていました。

 私は以前、個人的な学習の為に、ある大学の非常勤講師が開催しているセミナーに通った事がありました。その非常勤講師の人はとても面白い人でしたが、ある時にこの様な事を語っていました。


「いま大学生の中には、昔にアメリカと日本が戦争し、その結果、日本は敗戦したという歴史をしらない学生が多くいる。こんなバカな大学生に講義をする事は、私の人生の時間の浪費でしかない」


 これはかなり際どい発言だと思いましたが、考えてみれば日本の学校では日本の歴史という事について、あまり熱心に教育はされていないと思うのです。私自身、振り返ってみた時、恥ずかしい事ですが、例えば近代史で日清・日露戦争とはどういった戦争であったのか、太平洋戦争とはどういった戦争だったのか、という事すら理解していませんでした。これらの歴史に触れたのは、後にNHKのドラマの「坂の上の雲」「龍馬伝」「翔ぶが如く」という、司馬遼太郎氏の原作によるものを見てからだったのです。


 日本の歴史はとても長い歴史があります。恐らく世界的にみても、国家や民族が持ちうる歴史の長さと言う事で言えば、日本の持つ歴史の長さは上位に入ると思います。中国では「中華四千年の歴史」という事を言いますが、それでは今の中国を治めている漢民族の歴史はと言うと、実はあの国は他民族国家でもあるので、実は四千年なんて長きに亘ってはいないのです。


◆幕末期

 さて、この様に長い歴史のある日本史ですが、今の私たちの社会に一番関係しているのは、私は幕末期あたりからでは無いかと思うので、歴史についてはやはり幕末期から見ていきたいと思います。もちろん、徳川幕府時代以前の歴史も、幕末期や今の日本に様々な影響を与えている事は間違いないと思いますが、その辺りについても幕末期を見ていく中で見えてくると思うのです。


 幕末期とはいつ頃を言うのか少し調べてみると、実は厳密ない定義はありませんが、どうやら江戸幕府末期で黒船来航(1853年)から戊辰戦争終結(1868年)の約15年間を指すと言います。それまでの日本でも諸外国と日本の交易は行われていましたが、それば幕府のもとで、長崎の出島のみで行われていて、幕府以外の諸藩で諸外国との交易を行う事は御禁制でした。よく「鎖国」という事で、江戸幕府時代には一切諸外国との交易を禁止していたと言われていますが、正確には江戸幕府の時代は諸外国との交易は、幕府のみ行う事が可能という社会であって、けして国を完全に閉ざしていた訳ではありません。また薩摩藩では琉球王国(現在の沖縄県)を服属させていた事から幕府とは別に交易活動が行われていました。こういう背景もあって、実は幕末期の江戸幕府では、諸外国の動向を全然知らなかったという事ではなく、ある程度世界の動向の情報については掴んでいたと言います。


◆ペリー来航

 幕末はペリーの来航から始まりました。アメリカ海軍の代将のペリーが、東インド艦隊を率いて浦賀沖に現れたのは1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時頃の事でした。当時の日本人は、それまでもイギリス海軍やロシア海軍の帆船は見た事がありましたが、このペリーが率いてきた艦船は、全体が黒塗りの船体であり、蒸気機関による外輪船(スクリューではなく、船体の両脇に水車がついたもの)で、蒸気船が帆船を1隻ずつ曳航して黒煙をもうもうと吐き出していました。この事からこの船は「黒船」と呼ばれました。

 実はこの黒船来航を遡る事約一年前、1852年7月21日(嘉永5年6月5日)に、長崎出島にあったオランダ商館の館長、ヤン・ドルケン・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」というものを提出していましたが、そこにはアメリカが日本と条約締結を求めている事、その為に近々艦隊を派遣する事が記載されていました。またこれには中国周辺にあるアメリカ軍艦4隻と、アメリカ本土から派遣される4隻の艦名と共に、この艦隊の司令官がオーリックという人物からペリーという人物に変わった事、また艦隊には陸戦用の兵士と兵器を搭載しているという事も書かれていました。またその艦隊の出航は、4月下旬以降になるという事も書かれていたのです。

 それ以外にも同嘉永5年6月25日付のオランダ領インド総督のパン・トゥイストから長崎奉行宛ての親書「大尊君長崎奉行様」が提出されていましたが、そこにはこのアメリカの来航に対するオランダからの推奨案として以下の内容が書かれていました。

「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大阪、堺、長崎の五か所の商人に限る」

 この親書は全部で10項目からなるもので、通商条約素案とも言える内容でしたが、そこには1844年の親書の後にも、日本が開国されなかったので、オランダ国王は失望しており、もし日本とアメリカが戦争となった場合、オランダもその影響を受けかねないという懸念も書かれていました。


 当時の江戸幕府の老中首座(幕府の筆頭)である阿部正弘は、夏ごろに将軍に拝謁する順番をまっていた譜代大名にこの予告を回覧し、海岸防禦御用掛にも意見を求めましたが、通商条約は結ぶべきではないという回答を得ました。また長崎奉行からもオランダは信用できないという意見もあった事から、幕府の対応としては三浦半島の防備を強化するために川越藩・彦根藩の兵を増やすに留めました。加えてこの情報は幕府内でも奉行レベルの上層部に留め置かれ、来航が予想される浦賀の与力にも伝えられませんでした。

 ただこのオランダからの予告を、阿部正弘は外様大名である島津斉彬には年末までに口頭で伝えた様で、斉彬は翌年のアメリカ海軍東インド簡単の琉球渡来以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったと言いますが、この様な情報を共有された大名は、幕府の中では少数派であった様です。


◆幕府の対応

 ペリー艦隊の来航に際し、浦賀奉行の戸田氏栄はアメリカ艦隊旗艦サスケハナに対して、まずは浦賀奉行与力である中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡す事が目的だという事を把握しました。この時、サスケハナに乗艦するために中島は「副奉行」と役職を詐称しましたが、ペリー側では幕府の階級が低すぎると親書を預ける事を拒否しました。翌7月9日(嘉永6年6月4日)に、浦賀奉行の与力であった香山栄左衛門が浦賀奉行と称してサスケハナを訪問し、ブキャナン艦長とアダムス参謀長、またペリーの副官であったコンティーと会見しました。

 しかしペリー側の対応は変わらず親書は最高位の役人にしか渡さないと撥ねつけられました。香山は4日間の猶予をくれる様に頼みましたが、ペリーは3日間だけ待ち、「新書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しをすることになる」と恫喝したのです。

 この日、ペリーは艦隊所属の各艦から1隻ずつ武装した小型艇を派遣して、浦賀湾内を測量させました。この測量は幕府側に威圧を与えるという効果をもたらしました。この行動に浦賀奉行は抗議しましたが、ペリーは鎖国体制下での不平等な国際関係を排除する考えだと言いながら、その実は日本に対して不平等な関係を強いる考えが含まれていた様です。

 7月11日(嘉永6年6月6日)には早朝から測量艦艇を江戸湾内に20キロほど侵入させて、その護衛にはミシシッピ号を付けていました。この行動の裏には「強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、日本政府(江戸幕府)の目を覚まさせ、アメリカにとってより都合の良い返答を与えるだろう」との期待があったようです。

 これら一連の行動は幕府に大きな衝撃を与えました。この時、第12代将軍の徳川家慶は病床に伏せており、国家の重大事を決定できる状態にはありませんでした。老中首座の阿部正弘は7月11日(嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらであれば仕方がないだろう」との結論に至り、7月12日(嘉永6年6月7日)「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から親書を受領し、返事は長崎オランダ館長を通じて伝達する事を浦賀奉行に訓令し対応にあたらせたのです。

 そして7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許可し、旗本の下曽根信敦率いる幕府直轄部隊に加え、陸上を川越藩と彦根藩、海上を会津藩と忍藩が警備するなか、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見しました。ペリーは彼らに開国を促す大統領フィルモアの親書を渡し、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府側は「将軍が現在病気であり決定できない」として1年間の猶予を要求しました。それに対してペリーは「返事を聞くために1年後に再度来航する」と告げてこの会見は終わりました。

 幕府側は会見が終われば2~3日すれば退去すると考えていたのですが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)ミシシッピ号の移乗し、浦賀から20マイル屋上して江戸の港を明瞭に見る事ができるところまで進め、幕府に十分な威嚇をしてから小柴沖に引き返しました。7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に停泊していた艦隊と合流してイギリス植民地である香港へ帰りました。


◆町民等の反応

 この浦賀来航でペリーの艦隊は、アメリカの独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として江戸湾内で数十発の空砲を発砲しました。この件は事前に幕府側に通告もあり、町民にもお触れが出ていたのですが、最初の砲撃により江戸は大混乱に陥りました。しかしやがてそれが空砲だとわかると、町民は爆発音を耳にする度に花火感覚で喜んだそうです。


 また来航翌日の嘉永6年6月4日には、浦賀には見物人が集まりはじめ、翌々日には江戸から見物人も殺到したと言います。その中には佐久間象山や吉田松陰も見物に訪れていました。この見物人の中には勝手に小舟で近づくものや、乗船して接触を試みるものも居ましたが、幕府から武士や町人に対して「十分に警戒する様に」とお触れが出され、実弾発砲の噂もながれた事から次第に不安が広がる様になったと言います。


◆ペリー来航後の幕府の動き

 ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)、第12代将軍の徳川家慶が死去しました。将軍後継者の徳川家定は病弱で国政を担える人物ではありません、しかし老中らにも名案はなく、このペリー来航により国内には異国排斥を唱える攘夷論が高まり始めたのです。老中首座の阿部正弘はペリーが残した開国要求に頭を悩ませたのです。


 8月5日(嘉永6年7月1日)、阿部は広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に関わらない人々に対しても外交について意見を求めましたが、幕府が意見を求めるというのは江戸幕府開闢以来であり、この事に今まで発言権のなかった外様大名は喜びましたが、かといって名案は出ませんでした。そしてこの阿部正弘が行った広く意見を求める行為は、これ以降、国政を幕府単独ではなく合議で決定しようという「公儀興論」の考えを弘めてしまい、結果として幕府の権威を下げる事にもつながってしまいました。


 また阿部正弘は、アメリカ側と戦闘状態になった場合に備えて江戸湾警備を増強すべく8月26日(嘉永6年7月23日)に幕臣で伊豆韮山代官であった江川太郎左衛門らに砲撃用の台場造営を命じました。江川は富津―観音崎、本牧―木更津、羽田沖、品川沖という4線の防禦ラインを提案しましたが、予算・後期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営される事になりました。


 12月14日(嘉永6年11月14日)には建造途中の1-3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任じられました。また江戸時代初期に制定された「大船建造の禁」についても解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を10月21日(嘉永6年9月19日)い浦賀造船所で起工したのです。オランダへの艦船発注もペリーが去ってから1週間後の7月24日(嘉永6年6月19日)には決定、これは後の蒸気軍艦の威臨丸・朝日丸

となりました。12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し、土佐藩の藩校の教授となっていたジョン・万次郎を旗本格で登用し、アメリカ事情などについて説明を受けたのです。


◆まとめ

 これがペリー艦隊が来航した当時の幕府の動きでしたが、私が学んだ歴史では、来航の1年前にオランダからペリー来航が予定されているという報告が既に幕府に入っていた事は初めて知りました。そしてこの当時の老中首座である阿部正弘を筆頭とした幕閣が、ペリー来航に際して無策のまま、「諸藩に意見を求める」とういう判断を下した結果、幕府の動乱期が始まってしまったと思われます。


 江戸幕府は徳川家康が開いてから、強権的に国内の諸藩を260年近くに亘り抑え込んできました。これは国内の治安維持の為の方策でもあったのですが、これにより諸藩では、現在でいう「ヒラメ族」という様な、常に幕府の意向を伺う官吏のみを造り出し、また長い間、平安な時代を生きて来てしまった事から、この国難とも言うべ事態への打開策をこういった諸藩に求めた処で、諸藩の指導部にあたる人達の中で意見を述べられる人材は、当然いなかったのではないでしょうか。しかしその一方で、こういった幕府の行動は、「幕府にも対策への妙案無し」という姿勢を知らしめる事になり、結果として長きに亘る強権的な統治に亀裂を入れてしまう切っ掛けとなりました。


 また来航の一年前に既に幕府に対して情報が入っていたのにも関わらず、幕府自体も平時の中の対応の一環程度の対応しか、実質行わなかった事も問題であったと思います。


 日本語で「情報」という言葉がありますが、これは明治期になり陸軍の中で「情況報告」という言葉から出来た言葉だと言います。恐らく戦国時代やそれ以前の戦乱の時代であれば、今でいう「情報」という事の重要性を理解できていたのかもしれませんが、やはり徳川家康の開いた江戸幕府の下で260年の長きに亘り、平和な時代を過ごして来てしまった結果として、この様な対応しか当時の幕府首脳の中にも取る事が出来なかったし、それは危機管理が出来る人材が枯渇していたという事の現れであったと思うのです。



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